別れ際に最後の道連れ。
若い男女は、ともに相手の首に手を回しながら絡み合う。そして、棒倒しのように湖に飛び込んだ。
平日を休んでの逃避行の果てだ、と男の方は思った。
最後の空は夕焼けの色を呈していて、その一部が湖の水に映り込んでいた。
引き寄せたほうは女からだった。
いつもそうだ、と男の方は思った。
意気地なし。最後まで意気地なし。
自分を悪罵しながら身体が沈んでいく。
女の青いロングスカートで、足先はまったく見えなかった。ザブン、と音を立て、湖の水に触れるや色と服が水の中に溶けていく。煮溶けた肉じゃがのように、液体に負ける固体。消える。
夕焼けの赤さと彼女の青さ。それは年齢も込みである。だからこんな無謀な結末となったのだ。
夕焼けの色は実は戦争末期であり、この国の滅亡寸前を示す色彩である。
だから、だから男の方は意気地なしなのだ。
男は国のために死ぬことすらもできぬ。
身体が軟弱であり、一方資産家の令嬢である彼女はロマンスを求めた。それ故の逃避行の決断者であった。
湖の深度が深まるごとに、彼女の姿を覆い隠すようだった。服は糸がほどけたようになり、彼女の本来の色がむき出しになる。
それを見ていると、意外と呼吸は苦しくない。
これから苦しくなるのだろう。
そう思えど、そう思えど。
どこか忘れている。
世界の一部が終わろうとしているというのに。
思考はとめどなく溢れている。
死を後悔しているのか。この決断を躊躇っていたのか。それだけは違うと理解できた。
何なのだろう。
もうこのまま湖の底に沈積して、時代に忘れられる化石燃料になってしまえばいいのに。
しかし、頭の方までは化石にならず、意識は、はっきりとしている。
ねぇ、と女の唇は水中で動く。
生きていた頃、吸い込んでいた濁った空気が、口から男の方へ。ぽこりと大きく発泡する。
泡が頬に当たり、視界が……
いつまで寝ているつもり……?
そう口が動いているのをみて、視界が覚醒する。
一気に浮上する感覚。
男の身体が軽くなり、湖底から見上げるようにすると、石のようになっていた意識から目覚めることができた。
長い間、病室のベッドで眠っていた男はついに、ベッドのそばで待ちわびた人を一目見ることができた。
あれは、夢だったのか……?
その顔を見ると、随分と待たせたようだった。
澄みわたるほどに空は青い。その色は平和。
「通り雨だ!」
日本に帰国したばかりのその日。
鬼気迫る声で、轟くように誰かが言った。
ただの通り雨で、どうしてそんなことを言うのだろうと男は道ばたを歩いたままでいた。この国のアスファルトはどうしてこんなにもひび割れているのだろう。税金の使い方がなっていない。
などと、どうでもよいことに気を取られていたのかもしれない。
「危ない!」
「えっ、うわっ!」
男は突然誰かに肩を掴まれた。
びっくりよりも先に、そのままの調子でビルの軒先まで引きずられる。誰かは、男よりも年下の見知らぬ人。着古したシャツが汗と汚れでよれよれである。
「ふぅ、危ないところだった」
「な、なんなんですか一体……」
誰かは重い雨戸のように唇は重厚であり、切れ長の目は雄弁に語る。ほら、空を見ろ。と言っているように。
男は空をみた。
同じ場所、同じ色。暗雲垂れ込める空。
空の端から見違えるような暗闇の雲がやってきた。
自然の増幅装置を伴って、この街の真上に来た。
この雨は神社の鐘の音を鳴らすようなものだ。
普通の雨が増量しただけのものが短時間にわたって降雨するものだ、と男は踏んでいた。
にわか雨、夕立、驟雨。
スコール、通り雨、それから、ゲリラ豪雨。
災害級の瞬間雨量。
それでも時間には勝てない。
時間がある程度経過すればよい。
しかし、降ってきたのはそのどれでもない、別の物だった。
雨に混じって黒いシルエットが見えた。
矢のように長く細い。あるいは雨の影よりも長い。
上から下へ。
雨なら細かくて、やがて地面に吸収される。
けれどもそのシルエットは地面に触れたままの状態でいた。
槍が降ってきた。
ピストルが降ってきた。
飛行機の残骸のような、大きな金属片が降ってきた。
油のような、タールのような、環境に悪そうな液体もあった。
水たまりではなく、油膜の張った液体たまり。そして戦争と暴力の象徴……。
「こ、これは……」
男は目と口をあんぐりしたままになっていた。
ただの通り雨だ、傘をさすほどでもない。
そう思ったままでいたら、脳天から足先までズタズタに斬り裂かれていただろう。
「その様子だと、あんた、もしかして海外に行ってたのか」
「え、ええ、1年ほど。今日帰国したばかりなんです」
「この国はな、変わっちまったんだよ」
「1年で、こんなにも変わるものですか……」
「いや、1年じゃない。もっと……、もっとだ」
通り雨は止み、通り魔のごとく過ぎていった。
暗雲の塊は雷の点滅具合とともに進路は混迷し、突き進んだ。
おびただしいほどに突き刺さった武器の残し、雨宿りの二人は立ち尽くしていた。墓標のように見えたからである。
秋は、秋も飽きっぽい。
と思えるほど、短縮営業注意報。
秋の風を嗅いで、過ごしやすさを心も身体も感じていきたい。
窓から見える景色は木の桟橋。
今しがたエンジンが入った。
船内は華やかなBGMが充満しており、これから限界集落の島から離れる事実を、なんとかかき消す作用をしている。
六割強の席が埋まり、家族連れが多い。
そのため、外よりも内に注意の目は動いていた。
一席に座り、外を見ていた。
船の窓より見通せる外の景色は、海の上に立つ桟橋と海を捉えていた。桟橋の根元はコンクリート。寂れる港である。
自身の乗っている船のエンジン音が一段と強くなり、機械がぐんと気合を入れたようだ。
やがて動き出す。ゆっくりとした時間をかけて、ゆっくりとバックする。大げさなエンジン音が水面下で火を吹くようだった。
船はバックして、徐々に桟橋から離れていく。
桟橋の待機人は、繋留紐を素早く手繰り寄せている。
一方、船はというと緩慢とした動き。
車両なら、トラック三台が発車していることだろうに。
船のUターンは海上故に、それ以上の穏やかで叙情を感じさせた。
瀬戸内海の穏やかな海側の水。
その水をかき混ぜる船の白い泡。
それに紛れて……
窓から見える景色は桟橋。
桟橋の下。海と、船のかき混ぜられて流された白い泡に隠れるように、誰かが捨てたであろうコカ・コーラの赤いラベルがふよふよ浮いていた。
形の無いもの。形而上だっ! と思った。
形が無いからといって存在しないと断言できるかといえば、それは嘘になる。
形が無い=目には見えないと言い換えることができ、しかし近現代にて、物質は全て分子という名の見えない最小単位で構成されていることが分かっている。
義務教育の範囲内で、ごく当たり前のように、子どもたちはそれを習う。
形而上で思いつくのは、宗教的思考だろう。
人間は、人間には想定しえない超超次元的存在を空想し、仮にそれがあると定義づけた。
昔は形が無いものを定義するのが好きだったのかもしれない。
目に見えるものは全て形がある。
例えば星空。
光が目に入ってくるということ。
正確な形は手に取ることのできない強大な距離で離れ離れになっているだけで、それは存在するとわかる。
しかし、人間はちっぽけな存在であるから、あるいは、より身近に置きたいと思ったのか。
星星をつなげて星座を作り、別の形を召喚した。
その形を基に、似たような形を想起し、また別の形を……という連鎖式想像を創造し、頭を巡らせる。
形而上は頭の中にしか存在しえないから、目の前の目に見える景色を媒介として、目に見えないものを錬成する。その辺に、人間特有の欲望の深さが垣間見えて良い。