私たちは一生の間にさまざまな感情を抱く。そのなかで、最も不思議で言葉で説明するのが難しいものは「愛情」だと思う。最近、別れた旦那が元妻を殺したというニュースを見た。おそらく、一緒に生活をする上でいろいろなことがあって別れたのだろう。もともと、別の環境で育ってきた人なのだから相手の全てを理解することは難しいだろう。ただ、別れる道を選んだとはいえ一度はともに暮らす道を選んだ2人。どちらにも相手を思う心があったはずだ。一度は、恋をしてともに暮らしたいと思い一緒になった人を殺すような心境になったのは何故なのだろう。
今、多くの人がおそろしい鏡を持っている。
それは、スマートフォンと呼ばれている。そのなかの、SNSと称されるアプリを使っている人も多いのではないだろうか。スマートフォンの普及によって、自らの意見を述べる場所に多くの人が足を踏み入れることができるようになった。そのなかで、あとで振り返ると少し過激だったかなと思う書き込みをしたことのある人もいるだろう。私もそのなかの一人である。しかし、それこそが私の中の一部だったのかもしれない。現実社会では、仕事仲間や家族に迷惑をかけることで出せなくなっている自分がどこかにいるのかもしれない。
小さい頃、古い携帯電話(両親が使わなくなったガラケー)をおもちゃにしていた。通信機能はなく、ネットなども使えないがあのボタンを押す感触がたまらないのだ。同年代には、あれを遊び道具として与えられ使っていた仲間もいるのではと思う。はじめて、携帯電話を買うために店舗を訪れたときにガラケーは1台も置いていなかった。もちろん、購入したものや今こうして使っている携帯電話はスマートフォンと呼ばれるタッチパネル式の電話だ。私は、ガラケーを使ったことがない。使っていたが、電話本来の使い方はしていない。そのため、詳しいことは分からないけど便利さはスマートフォンにはかなわないだろうと思う。しかし、時たまあのボタンの感触が懐かしくなってたまらないのだ。
どこかに出掛ける。それは、自分の知ろうとしなかった世界への入り口だと思う。まだ若い(20代)私がそう思えたのは自身が映画を通して経験した出来事が大きい。私は、あることがきっかけで少し前の音楽をよく聴いていた。高校生ながら、小室哲哉や聖子ちゃんを口ずさんでいたのもいい思い出だ。そんなある日、人に誘われてある映画を観に行った。その主題歌が素敵だった。その日のうちに、誰の歌かを調べるためにYouTubeを立ち上げたのを今でも覚えている。そのときまで、恥ずかしながら今の曲にいいものなんてないと思っていた。そんな私が今や、たにゆうきさんの虜になり「愛言葉」や「wxy」を聴いているなんて当時の自分に教えたら嘘だと笑われるだろう。
今の世の中は大人にとって世知辛い。
子供は、毎日のようにココロオドル存在だ。 初めて体験することが多いのだから当然である。
人生経験が豊富な私たちは何か特別な催しでもないとココロオドルことなんてできない。
別に、ライブや某ネズミの国など非日常を求めなくてもいい。買い物でもいいのだ。少し前までは、それでよかった。しかし、異常としかいえない物価高の上昇は大人にとってほんの少しの楽しみすら奪ってしまった。