今、多くの人がおそろしい鏡を持っている。
それは、スマートフォンと呼ばれている。そのなかの、SNSと称されるアプリを使っている人も多いのではないだろうか。スマートフォンの普及によって、自らの意見を述べる場所に多くの人が足を踏み入れることができるようになった。そのなかで、あとで振り返ると少し過激だったかなと思う書き込みをしたことのある人もいるだろう。私もそのなかの一人である。しかし、それこそが私の中の一部だったのかもしれない。現実社会では、仕事仲間や家族に迷惑をかけることで出せなくなっている自分がどこかにいるのかもしれない。
小さい頃、古い携帯電話(両親が使わなくなったガラケー)をおもちゃにしていた。通信機能はなく、ネットなども使えないがあのボタンを押す感触がたまらないのだ。同年代には、あれを遊び道具として与えられ使っていた仲間もいるのではと思う。はじめて、携帯電話を買うために店舗を訪れたときにガラケーは1台も置いていなかった。もちろん、購入したものや今こうして使っている携帯電話はスマートフォンと呼ばれるタッチパネル式の電話だ。私は、ガラケーを使ったことがない。使っていたが、電話本来の使い方はしていない。そのため、詳しいことは分からないけど便利さはスマートフォンにはかなわないだろうと思う。しかし、時たまあのボタンの感触が懐かしくなってたまらないのだ。
どこかに出掛ける。それは、自分の知ろうとしなかった世界への入り口だと思う。まだ若い(20代)私がそう思えたのは自身が映画を通して経験した出来事が大きい。私は、あることがきっかけで少し前の音楽をよく聴いていた。高校生ながら、小室哲哉や聖子ちゃんを口ずさんでいたのもいい思い出だ。そんなある日、人に誘われてある映画を観に行った。その主題歌が素敵だった。その日のうちに、誰の歌かを調べるためにYouTubeを立ち上げたのを今でも覚えている。そのときまで、恥ずかしながら今の曲にいいものなんてないと思っていた。そんな私が今や、たにゆうきさんの虜になり「愛言葉」や「wxy」を聴いているなんて当時の自分に教えたら嘘だと笑われるだろう。
今の世の中は大人にとって世知辛い。
子供は、毎日のようにココロオドル存在だ。 初めて体験することが多いのだから当然である。
人生経験が豊富な私たちは何か特別な催しでもないとココロオドルことなんてできない。
別に、ライブや某ネズミの国など非日常を求めなくてもいい。買い物でもいいのだ。少し前までは、それでよかった。しかし、異常としかいえない物価高の上昇は大人にとってほんの少しの楽しみすら奪ってしまった。
過ぎた日を思う
「防災の日」
9月1日は「防災の日」とされている。それは、101年前に大きな地震いわゆる「関東大震災」が発生したことにちなむ。かつての、大震災で亡くなった命と被害から防災について学ぶという趣旨からできた記念日だときく。しかし、今のご時世では100年も過ぎた震災から学ぶものはあるのか。「関東大震災」で大きな被害が出たのは当時の住宅が木造建築だったからという現在の住宅事情とは程遠い側面の影響が大きい。実際、今のように雨が多く降るような天候になりつつある昨今においては「東日本大震災」から学べることのほうが多いだろう。
そのなかで、「関東大震災」が特別視されるのは何百年も前に生きていたあなた方を忘れないという後世を生きる私たちの最大限のメッセージなのかもしれない。