耳を澄ますと
全ての家事を終わらせ、覚束無い足取りでソファに向かう。腰をおろすと一切の音も立てず深く深く沈んでゆくので、このまま誰にも気付かれず夜と同化してしまうのではと思った。先程から外の世界も静まり返っている。しかし耳を澄ますと微かにカエルの鳴き声が聴こえた。命の音色に心を奪われる。すると何故だろう?消えかけていた心のロウソクが再び強く燃え始めた。私は勢いよく立ち上がり棚からノートを取り出すと、思うがままにペンを走らせた。踊るペン先からは歪なメロディが流れ出し、静かな部屋に響き渡る。そうか、思い出したぞ。この不協和音こそが私の命の音色だったんだ。この音を一生鳴らし続けなければならない。たとえ誰も聴いていなくとも。
楽園
気が付いたら知らない土地を歩いていた。
不安に思い、周囲を見渡す。
先程から仄かに甘い香りが漂っていたのだが、やっとその正体を突き止めた。なんと辺り一面に花々が咲き乱れていたのだ。どうやらこの土地には花壇という概念が無く、そのため際限なく花が広がり続けているようだった。
足元に目を落とす。道は存在している。きちんと舗装もされているので間違いない。しかしどうしてだろう。違和感を覚えてしまう。そうだ、あまりにも静かなのだ。
少し考えてからふと気が付いた。いっさい車が走っていないのだ。どうしてだろう。ここは大きな公園なのか?そういったレジャースポットに間違えて入ってしまったのか?ここは一体どこなのか?状況が掴めず、次々と疑問が浮かんでくる。
しかし心配する必要は無かった。
ここは老若男女多くの人々が生活するごく普通の街であり、行き交う人々は皆しあわせそうに笑っていた。その様子を見て私も自然と笑顔が溢れる。一気に緊張が解け、安堵した。
さらに周囲の観察を続ける。
手押し車を押している老夫婦が昔話に花を咲かせて談笑している。そのすぐそばで、蝶々さんだ!と言って走り出した小さな子供を、若い夫婦がニコニコ見守っている。みな世の中のしがらみから解放されているようだ。
そんな事を考えていると急に名前を呼ばれた。振り返ると死んだはずの祖父が笑顔で私の元に駆け寄ってきた。いつの間にか、私の体は子供の頃のように小さく縮んでいた。
その瞬間、なんとなく全てを悟った。
ここが天国だと断言できるわけではないが、死者と対面しているという事は少なくとも現実ではないのだろう。時間が戻るという非現実的なことも起きているわけだから。
一滴の涙が頬を伝う。祖父は慌てて私の顔を覗き込む。どうしたら良いか分からないといった表情で私を見つめている。生きていた頃のまんまだ。
ああ、なんて幸せなんだろう。ここは楽園なのかな。この時間は一生続くのかな。この場所が本当に存在していれば良かった。
そんな筈はないと分かりながらも私は祖父の手を取って走り出した。