とらた とらお

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12/2/2024, 12:43:53 AM

(題目しらず)

愛の力は強すぎる。
強すぎてむしろ危険だ。

悪事身にとまると言っても
愛する者を守るため
捨て身で来られたら周りは敵わない。

悪事を犯した者が天寿を全うし
その者の周りと愛で守った者が
苦しむ結果になる。

愛で守りきった者は
その者が受けるはずだった苦しみと
自分の悪事による苦しみの両方を受けても
愛で救った喜びから、苦しみには感じないだろう…。

11/29/2024, 1:25:35 PM

冬がはじまり
寒くなったためか
いつも以上に食べたくなる

今も何か摘まんでおきたい気分だ
太り防止で余計な食べ物は一切置いていないから
何も食べることができない…

さて、軽い飢餓感から来るムカつきからか
投稿時の広告をちょろまかしてしまい
投稿されるはずの原稿は宙に消えた
実はこういった原稿はいくつもある…

反省してもふとした時に
同じ行動を繰り返す
仕方がない
人間である以上、そんなもの…

最後に、本来投稿されるはずだった
原稿の一部を載せて終わる
みんなおやすみ
よい肉を…


罪を犯していない自分と
罪を犯している自分
同時に存在していることに
気づいてくれる人はどれだけいるのだろうか

11/29/2024, 3:40:35 AM

(題目しらず)

鋼の錬金術師を久しぶりに見た。

アニメさえも苦痛で見られない日もあるため
見終わるまでにだいぶ時間を要してしまった。

最後の言葉で落とされた。
恋に落ちるとかそっちの意味の「落とされた」
今の私にこんなに突き刺さる言葉はない。

あまりにも真っ直ぐ突き刺さるものだから、
聞き終えた瞬間思わず笑いが込み上げてしまった。

いやぁ、ほんと…
いい作品だ。



鋼の錬金術師(最終回)
エドワード・エルリック

 痛みを伴わない教訓には意義がない

 人は何かの犠牲なしには
 何も得ることはできないのだから

 しかし、その痛みに耐え
 乗り越えた時……

 人は何者にも負けない
 強靭な心を手に入れる

 そう、鋼のような心を…

11/27/2024, 11:55:50 AM

(題目しらず)

人生はいろいろなものに例えられますね。

今回私は、今の自分、今のあなたについて
例えてみましょうか。

今の自分、その場その時の自分自身は
きっと『料理の味』に例えられるでしょう。

今の自分の発言、性格、行動等は
その時の環境、状況、経験、法則、その他諸々
認識できない全ての条件が揃って叩き出された
たった1つの結果です。

これらの条件が寸分違わず揃った時
それ以外の行動は取れないでしょう、
という意味でたった1つの結果と言いました。

さて、料理には様々な食材、調味料を使いますね。
水で煮るか油で炒めるか、はたまた素焼きするか。
火にかける時間、寝かせておく時間というのもあるでしょう。

これらの要素でその時の料理の味が決まります。
1度加えた要素で味がつき始めたら
もう無かったことにはできません。
それらの要素が全て揃って叩き出されたものが
料理の味と言えるのでしょう。

「それじゃあ…、よくない経験が1度でもある私は、一生不味い味の料理ということですか…?」
と…。

いいえ、心配することはないでしょう。
料理には調味料というものがありますね。
醤油とか、あとブイヨンもここに入れたいですね。

今の自分を作り出しているものの中に
「経験」というものがあります。
これによって性格が決まったり
行動、発言が変わったりと
今の自分を作る上で重要な条件になっています。

今の自分は、その瞬間にある全ての条件から
作られた結果です。
一方、条件の一つである「経験」というのは
過去の全ての条件が含まれた抽出物と言えます。

調味料や料理のベースを作るように
過去の出来事全てを放り込んで
煮出したり、発酵させたり、アクを取ったりして
旨味を出す基にすればよいでしょう。

そう考えると、今の自分も
過去の全ての条件が含まれた抽出物と言えますから
未来の自分の調味料と言えるのかもしれませんね。

ちなみに私は、過去の苦い経験を
苦悩してる人たちへの共感に利用してます。
誰よりも心を届けられるようになる。

さて、自分という料理があれば
相手という料理もある。
お互いの味が近いもの同士は
共感できる、馬が合う
ということなんでしょう。

フランス料理なのかイタリアンなのか
はたまた純日本食なのか。
皆さん、何味なのでしょうね。

11/23/2024, 11:21:38 AM

(題目しらず)

『道理百遍 義理一遍』
これは、人の心を動かすには
道理を百回説き聞かすよりも
一回情義のこもった行動をする方が
有効であるという意味のことわざ。

まさしくそうだと私も思う。
(何様だ。どの口が言う)

情義のこもった行動を普段から取る人は
道理の大切さも認識している。
情義のこもった人の言う道理一遍は
普通の人の道理百遍分の力を持つことがある。

それは、道理一遍が義理一遍。
道理を説くこと自体が
情義のこもった行動になるということだ。

道理を上手く使う人は
道理の特性もよく理解している。
義理は即時性、道理は遅効性。

情義のこもった行動は
すぐさま人の心を動かすだろうが
道理はすぐさま人の心を
動かせないことも少なくない。

それでも、5年後10年後に効いてきて
相手の心を動かすこともある。
「あの時言ってくれた言葉の意味、
今になってようやく気づけました…」
といった具合にだ。

だからこそ
百遍も聞かすことはしないのかもしれない。

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