散歩した。
少年が眺めてる。声かけた。
『一緒に探そうか?笑』
「ぁ…いや、大丈…」
(眺めるだけ眺めとこ)
「…たしかここら辺に…」
(???)
『探してんのはゴムボール?』
「いや、軟球…」
『どっから投げた?どこ落ちた?』
「この辺に落ちた」
草むらに入る。足でふみふみ。
「あった!!!」
『お?よっしゃ。』
少年に先越された。
野生になり損ねた軟式ボールが捕らえられた。
さらに散歩した。
「あの、よかったら」
(???)
自転車に乗ったおばちゃん。声かけられた。
「健康と幸せを祈りたいんですけど…。
1分ほどいただければ。」
『ハハッ、じゃあお願いしていいですか?』
道端で目を閉じる。
(2分は経過してる。笑)
『なんで私に声かけようと思ったんです?』
ぺちゃくちゃ話した。
「あ!よかったら」
『なんでしょう??』
「野菜いりませんか?」
まん丸ナスとししとう1本。
『本当に貰っていいんですか?遠慮できないたちだから本当に貰っちゃいますよ??ありがとうございます!お気をつけて。』
遠慮なくいただいた。笑
今日はおもしろい1日だった。
昔からよく不思議な人に呼び止められる。
いや?そういえば…。
最初の少年は、私が呼び止めた方だった。
本当にあった、今日のはなし。
幸せな1日だ。
人っていうのは
自分が真剣に抱えるものを
言葉にして現してもらった時
凄まじく感動する生き物だと思っている
最初は人に現してもらわなきゃ
抱えるものの正しい形さえ見えもしない
それでも目を凝らし続ければ
いずれ焦点が合って見えるようになる
…こともある、いつもじゃない
言葉や形にすることを繰り返せば
より正確に抱えるものが見えてくる
我々がここでやっていることもそれと同じ
真剣に抱えるものを言葉にして現している
その言葉が
相手の真剣に抱えているものを現した時
人を凄まじく感動させる
そう思ってる
山君猛虎にも愛心あり
※山君(さんくん):虎の別名
どんよりと 明るい夜道に 影がさす
ついぞ先まで 満面に照らせしも
素人なのに短歌を作ってと
ついこの前言われたから、その流れ…。
子供の頃にしてもらったこと
やってしまったこと…
大人になってふと思い出し
連なるように記憶が引き出される
亡くなった祖母の記憶
次々出てくる記憶に
「よくこんなこと覚えてたなぁ 笑」
と思うほど何気ない、けれど
笑い合い楽しんでいた頃のものがあった
寝ようと目を閉じていた顔に
自然と笑みが溢れる
いくつか見れて幸せだ
そこに暗い記憶がひとつ
背中に水滴が落ちたように
ヒヤッとすると同時に胸が微かに震える
ひとつ、ふたつとポツポツと
水滴がいつの間にか涙になって流れていく
優しい記憶がほとんどでも
時にそうした記憶が作り出されるのは
仕方のないことだろう
今日のところは
優しい記憶を追加で思い出し
おばあちゃんに感謝の気持ちを述べて
もう一度眠りにつくことにした
私の胸を打つ記憶
そうした記憶が私をつくり
その私が人の記憶の源となる
こうして人は循環していくのかもしれない