ささほ(小説の冒頭しか書けない病

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11/14/2024, 10:25:23 AM

秋風

秋の風は色なき風、秋の色は白、そうよ秋には色がないのよとあのこは言った。秋の日差しの下、色白な頬にはそばかすが散って、あのこが眩しくて、よく見ることができなかった。よく見ておけばよかった。あのこはあっさりと交通事故で死んでしまったから。この世界には色がない。秋であろうとなかろうと、私の世界の風にはもう色がない。あのこがみんな持っていってしまった。秋の風は色なき風、秋の色は白、秋には色がないのだとしたら、私の人生はもうこれから先ずっと秋なのかもしれない。


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以下蛇足。蛇足が本編なのはよくないと思うので改めたい。改めたいが、これ、真面目に蛇足が本編だよね?

色なき風が秋の季語で、秋の色が白というのは事実です。秋の色が白というのはたとえば北原白秋の名の由来が秋は白、なんですよ。

これ中国の古い考え方で、たとえば春を青とします。青春という言葉はそこからきてます。ちなみに夏は朱色なので朱夏と申します。冬は玄で黒いんですね。冬は雪で白そうなもんですが、実際は絶望で黒くなるのかもしれません。

私は春が青で、夏が朱で、冬が黒なのは納得するんです。春はまあ芽吹きの青でしょう。夏の朱は暑さを象徴する太陽の色でしょうし、花の色であるかもしれません。

でも秋が白いのは納得いきません。秋は実りの季節です。山は実らぬとしても紅葉に彩られ、俳句の世界でもそれを「山粧う」と呼んだではありませんか。なのに、どうして、秋の風には色がないというのでしょうか。 

昔の日本の詩に書かれた秋は、とても硬質で、色がなくて、それでもとても美しいものでした。たとえば「カチリ、石英の音」を秋とする詩はたいへん美しいと思います。この短い詩を私は井上靖の文章で知りました。

秋の異常透明の空を見上げれば、確かにこの季節の風には色がないのかもしれないと思います。秋空の透明感は他の季節にはありません。あの素晴らしい透明感を「色なき風」と言ったり「白秋」と言ったりするのは分からないでもないです。

秋は無彩色も似合うくせに、本当は彩りの季節であると私は思います。秋の山を歩けば、山柿、あけび、野ブドウ、足元を見ればハツタケ、アカモミタケ、ハナイグチ。たくさんのおいしい秋の恵みが秋の山を彩ります。そもキノコがたくさん生えてる時期の山はすてきにキノコの匂いがするんです。匂いに色があるならあれは派手なバラ色です。

私がいちばん好きなのはハツタケですが、これは見た目地味なキノコです。しかも傷をつけると青変します。見た目はすごい毒々しいですが美味しいキノコです。アカモミタケはハツタケと形は似てますが鮮やかなオレンジのキノコでとても美しいし美味しいです。まさに秋らしいキノコ。

私の秋ははなやかです。それは秋の恵みのおいしさを教えてくれた祖父や祖母のおかげです。白秋が「黒猫の耳鳴りのごとく時は逝く」と書いたようにひっそりと過ぎてゆくのが文学的な秋かもしれませんが、まあそれはそれとして、私の秋は、はなやかであるまえに、とても美味しいのです。北原白秋もたぶん美味しい秋は知ってたんじゃないかなと思います。

11/13/2024, 10:25:33 AM

また会いましょう

ドアーズのCrystal Shipが聴こえる。私をメランコリーの闇に落としたあの暗くてきらきらした音楽が。また会いましょうの声。繰り返す悪夢のように繰り返す「また会いましょう」…原文でいうとWe'll meet again, we'll meet again。誰がまた会うというの? また会わなければならないの? 自宅のドアを開ければぐらぐらとたくさんの口にそれぞれ牙を生やした闇が私に噛みつこうとする。それをいなして廊下を走って寝室のドアを開ける。あふれる波のように連なる眼球の群れがこちらをぎろりと睨みつける。それでも私はドアを開ける。望んでドアを開ける。私の意志で。また会いましょうの呪いを胸に…いやこの鼓膜に刻んでしまったから。私はあなたにまた会うためにドアを開ける。

11/13/2024, 9:54:30 AM

スリル

スリルを求めたらろくなことにならない。それは知ってる。というか知ってるつもりだった。夜0時、日が変わる時刻にスマホと鏡を使って合わせ鏡をすると「とてつもないスリル」が味わえる、とバカバカしい話を聞いたときぼくはただ笑った。そうだよあんなことするつもりじゃなかった。ちょっとストロングなチューハイをうっかり3本飲んで鏡に向かったら、ほんの出来心で…スマホと鏡で…ぼくが悪かったです。出来心でした。もうしません。スリルはもう全然いりません。だからどうかここからおろして。あたりいちめんは火の海、ぼくは一本の細い綱に繋がれなんでこんなところに連れてこられたのかさっぱりわからないけどたぶんぼくのせい、そしてここはきっと地獄。

11/11/2024, 11:00:16 AM

飛べない翼

翼と羽の違いは何?ときみに聞かれて答えられなかったのは十年も前のことだ。今は羽と羽根の違いだって答えられる。きみのその背にあるものが、翼でも、羽根でもないと、ぼくは今はっきり断言することができる。

ヒト族はドワーフやエルフと同様飛べない人種である。飛べる人種はハーピーだけである。翼を持つ人種もハーピーしか存在しない。飛べない翼が飛べない人種の背に生えてくるまで、飛べない人種は飛べないことを特に気にはしなかった。しかしおのが背に翼があると知った飛べない人種は毎日毎日、その翼で飛ぼうとした。その翼は病によってできた偽物の翼でしかなかったのに。

きみの背にあるものは翼ではない。ぼくが作り上げた最高傑作のそれは翼ではない、羽だ。もろく見えるだろうが丈夫だ。計算上ではきみの体重を持ち上げるはずだ。ぼくの背中にあるつまらない飛べない翼と違って。だから飛んでみてほしい。2階から飛び降りろなんて言わないよ。地上からほんの少し浮き上がってくれたら…

ぼくはそれで天国に飛びあがる思いだろう。



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以下蛇足。ていうか蛇足が本文。

私は飛べない鳥が好きです。いちばん好きなのはもう存在しない鳥ですがモア。巨鳥モア。その大きさを想像するだけでとてもはろばろした気分になれます。

たとえばご近所の花鳥園にいるエミューやご近所のお山で飼ってるダチョウなんかも素敵です。エミュー牧場に連れてったら私の子はエミューの大きさをおっかながって泣きました。ダチョウを飼ってるおうちに連れてったらびっくりして口をばかんと開けて見上げました。

でも、モアは、そのエミューよりもダチョウよりも大きいのです。ダチョウの背後に幽霊のごとく立つ幻のモアがカッコよすぎなのです。

「巨鳥モア」というSF短編もありました。河野典生の作品です。町中に突然現れるモアが恐ろしくもあり、懐かしくもあり、憧れでもあり。筒井康隆は『私説博物誌』の中で河野典生の「巨鳥モア」に触れつつ「モアは、もういない。」と何度も繰り返し書きました。モアはもういませんが、いないという事実さえも大きな意味を持つくらい大きな鳥なのだと思います。

飛べない鳥はドードーなんかも含めだいたいでかいですが、おそらくあまり大きくはなかったであろうスチーフンイワサザイという飛べない鳥を見てみたかったなと思います。一匹の猫によって絶滅させられたという伝説を持つ飛べないスズメ。実際は複数の猫がいたらしいですがそういう問題じゃなくて、飛べないスズメなんて絶対的に可愛いので飼ってみたかった…

飛べない鳥といってもペンギンは飛べない鳥という感じがしません。あのこたちはよちよちと歩きますし飛べませんが、とても自由に泳ぎます。空を飛べないペンギンは水の中を自由に飛ぶのです。

先に名前を出したドードー。あれは飛べない鳥であると同時になにか間抜けな雰囲気がつきまといます。でもドードーは「不思議の国のアリス」に印象的に描かれることによって不動の地位を得ました。ドードーはドードーであるだけで素敵なのです。 

なんて書いてると庭でニワトリがコケコッコーと鳴きます。そういえばニワトリも飛べない鳥かもしれません。でもやつらを飼うとわかります。やつらは少し飛ぶのです! せいぜい二階の屋根に飛ぶくらいですが、立派に飛びます。なので私の分類ではニワトリは飛ぶ鳥です。ニワトリと同じ枠でヤマドリやキジも飛ぶと思います。ちょっと飛ぶ。そのちょっとが大きい。だって私たち人間はちょっとも飛べないんですよ。

鳥は飛ぶから鳥だと素朴に言った人もいますけど、飛べない鳥も立派に鳥で、それぞれに赴ける場所をかけてゆくのでしょう。

11/11/2024, 9:46:25 AM

ススキ

白い穂が揺れる。いちめんの白が波打つように。「いちめんのススキの穂ってきれいだね」と言ったら、即否定された。「あれはオギだ」って。うんそうなんだよあなたはそういう人だよ。お月見の季節は過ぎた初冬の野原で、私たちは白い穂を摘んだ。これでクリスマスリースを作るのだ。ふわふわほかほかのひよこみたいな可愛いリースができあがる予定。「おれはススキで作る」とあなたは主張する。散歩しながらススキを探そう。ススキのリースは可愛い茶色いひよこみたいなできあがりになるだろう。


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風邪を引いてしまいしばらく死んでました。多少復活したのでこっちもがんばります。ところでススキまたはオギでクリスマスリースを作るのは簡単可愛いのでみんなやってみよう。

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