勝ち負けなんて
私は趣味でよく将棋を指すのですが、将棋もしっかりと勝ちと負けが着くゲームで、なんなら他のゲームやスポーツよりも負けた時の悔しさが大きい気がします。
実はあまり一般には知られていないこともあるのですが、将棋というゲームは、(反則負けを除き、)片方が投了しなければ対局は終了しません。
玉が詰んだら終わりと思われがちですが、詰んでも投了をしない限りは対局が続くという判定です。(詰みの局面から投了しないで何もしないでいると、最後には時間切れor王手放置のどちらかで反則負けになるのですが、その様な行動は一般に重大なマナー違反とされています。)投了は、自分の負けを認め、将棋の対局を終える意思を表す一つのしっかりとした「行動」として、棋譜にもそのように記録されます(98手目 〇〇 99手目 投了 まで98手で後手の勝ち、といった感じ)。
なので負けの局面では当然「負けました」と言わなければならないのですが、これが本当に悔しいのです。悲しいというか悔しいというか、とにかく悲しくなります。上手い例が見つからないのですが、一番近い感情が、学校のテストで思ったよりもめちゃくちゃ低い点数だった時のあの感じ。アレが負けた時には大体つきまといます(それほど悔しくない時もたまにありますが)。
でも本当に凄いのはここからで、ネット将棋などは別の場合もありますが、しっかり盤を挟んで対局する時には「感想戦」をします。簡単に言えば振り返り。勝っても負けても、対局後にはほぼ必ず感想戦をして、自分が考えていたことなどを共有し、他の手順を検討したりします。
なんでそんなことするのとか、気まずくないかとか思われるかもしれません。確かにそういう感じもあるのですが、それでも感想戦はやります。「とにかくめちゃくちゃ勉強になるから」です。
もちろん負けた側は死ぬ程悔しいのですが、一度振り返って見ると、指してた時には分からなかったミスが意外と見つかりますし、お相手の考えていたことと照らし合わせると意外な筋も見えたりします。これがとにかく勉強になるので、日常のフリーの対局でも、プロの棋戦でも、基本的には感想戦を必ず行います。
なので、感想戦は「勝ち負け問わず、双方が強くなる」ための時間とも呼ばれてたりしますし、感想戦してる中で、(将棋の検討しかしてないのに、)なぜかめちゃくちゃ仲良くなったりもします。「棋は対話なり」ということわざがあるほどです。
個人的には感想戦はめちゃくちゃ好きです(将棋自体は負けることが多いですが)。他のスポーツで、試合が終わったあとにする握手とかよりも、より相手と仲良くなれるので、あと「勝ち負け関係ない」ところになんかよく分からないエモさもありますからね。
追記
先日の名人戦で防衛を決めた藤井聡太先生本当におめでとうございました。あの難しい終盤でずっと最善手指し続けてたのやはり化け物過ぎて、リアタイ見てながら恐ろしくて震えてました。そして長瀬先生もお疲れ様でした。全体的になんかめちゃくちゃかっこいいし、投了する時の姿勢が綺麗すぎました。何回みてもかっこいいです。真似したい。あとやっぱり藤井先生と長瀬先生の感想戦(色んな意味で)めちゃくちゃ面白いし勉強になりましたお疲れ様でしただし本当にありがとうございましたm(_ _)m
記憶
(長文です)
今日、学校で離任式がありました。
色々な先生方が、定年で役目を終えたり、他の学校に行ったりするんですね。
その中で、この一年間私の現代文の先生てあった先生も定年により離任されたのですが(一応その後も学校に残って授業されるそうです)、その先生が言っていたことが少し興味深かったのでここに書かせてください。
その先生のような歳になると、自分の周りにいた沢山の人々が死んでしまう、との事です。
先生の両親をはじめ、友達や学生時代の恩師、昔に働いていた同僚などもご逝去されていったそうです。
そうなっていくと、自分の中ではその人との「思い出」だけが残っていく。ただそれだけで、死んでしまった人に関するその他のものは全て消えていってしまうそう。残るのは自身の中の「記憶」だけ。その様な状態になるそうです。
最終的には、その「記憶」のみ残り続ける自身の存在にすら不思議な気持ちを持ってしまう、とのこと。身体のみを見てみると一人の人間でしかないですが、その内部には確かに昔の記憶や今亡き人の記憶が残っているので、不思議に感じてしまうということでしょうか。
しかし、「器としてのわたしたち」という現代文の教科書にあった一つの文章を読み、その考えに大きな影響を与えられたそうです。
ざっくり内容を言うと、私たちの存在は「器」のようなものである、ということらしいです。私たちが得た知識、起こった出来事、その他の思い出などは全て「器」に溜まって行く、とのこと。
過去に起こった出来事などは、基本は何も起こらず過去のままで消えていくはず。それが消えないであるのは、私たちが「器」となり、その出来事などを受け止めていくから。
社会の仕組みを見ても、その事が言えるそうです。毎年新しい人が入り、老いた人は頃合を見てその場を去ります。十年二十年もしたら、大分見る人も変わるはずなのに、なぜか「文化」「風習」「伝統」という形で、何百年何千年と残っている概念もあります。
これは、私たちが「器」として先人たちの文化や概念を受け止め、後継者たちの「器」に注いでいく。その連続が長い間に続くことで、だんだんと「文化」というものになる。そういうことらしいです。
そして、そのような営みの中で、私たちの中にある「器」には少しずつ色々な記憶が溜まっていく。
最終的には、膨大な量の情報が詰まったとても大きな「器」になる。これが「思い出」と言われるもの。
だから、今や記憶だけ残るものになってしまった出来事でも、「器」の中にあれば、いやあるからこそ、確かにそこに存在するものとして認識できる、ということだそうです。
そしてその概念を他の「器」に注いでいくからこそ、その概念が無くならずに、過去も今もこれからも在り続ける、ということらしいです。
私がこれを聞いた時、めちゃくちゃ深いなぁと思ったのです(私の説明下手故に皆様にあまり伝わってない可能性も大いにありますが)。私もこれからの人生で、他の人の「器」に残り、多くの人に良い影響を与えられるような存在になりたいな。そう思いました。
終着点を見失いました
長文失礼、そしてここまで読んでくれてありがとう
芽吹きのとき
冬倒れ 気温は初めて 二桁超え
気温も気分も 昇る季節よ
ひそかな想い
私事ではありますが、少し話させて下さい。
只今、とある人に恋をしているのです。
私が中学二年生だった時に同じクラスにいて、そこでとても仲良くなった女子がいるのです。
今は別の高校に行っているのですが、たまに電車でも会う時があり、その時はよく話したりとかもしています。
最近は雪の影響で電車の前の方に乗る様になったのですが(通学バス争奪戦のためです)、その人もいつもそこに乗るので大体朝は会う様になりました。
そこまではそこまでなのですが、最近になって彼女が違う髪型で来る時があるのです。その時までは(私の知る範囲で)全く髪型を変えたことが無かったこともあり、シンプルにそのイメチェンが可愛い過ぎるのです。
恋愛自体は中学校時代に少しずつ想いを寄せるようになったものです。「ほどほどに愛しなさい。長続きする恋は、そういう恋だよ。」というシェイクスピアの言葉の通りと思っていたのですが、最近のその髪型の件があってから、本当に恋心が芽生えてきた様な気がするのです。
今高二なのですが、遅くとも高三の卒業時、その日の別れ際までには想いを伝えようとしてる所です。
何かの間違いでその人がこの文見て勘良く気づいて更にそれが両想いっていう奇跡とか無いかな〜、と思いながら(私自身の名前をアプリ内の名前にしてあるので)。いやもしそんなことあったら恥ずかしすぎるな。
それでもこの文を書いて、やはり私は好きなのだ、と改めて自覚できたような気がします。
私事ですみませんでした。
もし同じ様な「ひそかな想い」をお持ちの方がいれば、どうか実りの日がやってきますようにお祈りさせて頂きます。
時間よ止まれ
テスト前はいつも思います。時間が足りない。
もしも無限の時間を持てたなら。
今回流石にちょっとまずいかな〜と思いながら、いや待て少し落としても頑張ってある程度の点取れば一学期二学期の貯金で評定保てるかな?と考えつつネットで将棋を指すのがこの私