記憶
(長文です)
今日、学校で離任式がありました。
色々な先生方が、定年で役目を終えたり、他の学校に行ったりするんですね。
その中で、この一年間私の現代文の先生てあった先生も定年により離任されたのですが(一応その後も学校に残って授業されるそうです)、その先生が言っていたことが少し興味深かったのでここに書かせてください。
その先生のような歳になると、自分の周りにいた沢山の人々が死んでしまう、との事です。
先生の両親をはじめ、友達や学生時代の恩師、昔に働いていた同僚などもご逝去されていったそうです。
そうなっていくと、自分の中ではその人との「思い出」だけが残っていく。ただそれだけで、死んでしまった人に関するその他のものは全て消えていってしまうそう。残るのは自身の中の「記憶」だけ。その様な状態になるそうです。
最終的には、その「記憶」のみ残り続ける自身の存在にすら不思議な気持ちを持ってしまう、とのこと。身体のみを見てみると一人の人間でしかないですが、その内部には確かに昔の記憶や今亡き人の記憶が残っているので、不思議に感じてしまうということでしょうか。
しかし、「器としてのわたしたち」という現代文の教科書にあった一つの文章を読み、その考えに大きな影響を与えられたそうです。
ざっくり内容を言うと、私たちの存在は「器」のようなものである、ということらしいです。私たちが得た知識、起こった出来事、その他の思い出などは全て「器」に溜まって行く、とのこと。
過去に起こった出来事などは、基本は何も起こらず過去のままで消えていくはず。それが消えないであるのは、私たちが「器」となり、その出来事などを受け止めていくから。
社会の仕組みを見ても、その事が言えるそうです。毎年新しい人が入り、老いた人は頃合を見てその場を去ります。十年二十年もしたら、大分見る人も変わるはずなのに、なぜか「文化」「風習」「伝統」という形で、何百年何千年と残っている概念もあります。
これは、私たちが「器」として先人たちの文化や概念を受け止め、後継者たちの「器」に注いでいく。その連続が長い間に続くことで、だんだんと「文化」というものになる。そういうことらしいです。
そして、そのような営みの中で、私たちの中にある「器」には少しずつ色々な記憶が溜まっていく。
最終的には、膨大な量の情報が詰まったとても大きな「器」になる。これが「思い出」と言われるもの。
だから、今や記憶だけ残るものになってしまった出来事でも、「器」の中にあれば、いやあるからこそ、確かにそこに存在するものとして認識できる、ということだそうです。
そしてその概念を他の「器」に注いでいくからこそ、その概念が無くならずに、過去も今もこれからも在り続ける、ということらしいです。
私がこれを聞いた時、めちゃくちゃ深いなぁと思ったのです(私の説明下手故に皆様にあまり伝わってない可能性も大いにありますが)。私もこれからの人生で、他の人の「器」に残り、多くの人に良い影響を与えられるような存在になりたいな。そう思いました。
終着点を見失いました
長文失礼、そしてここまで読んでくれてありがとう
3/25/2025, 12:17:54 PM