桜の花びらが舞い散る瞬間って、なぜかスローモーションになる。
その時その時の一瞬を記憶するみたいに、眼に焼き付いていつまでも覚えている。
小学一年生。
登校時にピカピカのランドセルを背負って、頭上から降ってくる花びらにワクワクしたこと。
時間が有り余ってた学生時代。
読書をしながら校内の石畳の隙間に滑り込む花びらをぼーっと眺めていたこと。
入社一年目。
望んで入った会社なのに現実は思い描いていたものとは全然違って、毎日毎日朝の通勤時にちらつく花びらの綺麗さに泣きそうになったこと。
これから先もきっと人生の節目節目で、花びらとともに思い浮かぶ記憶がつくられていくんだろう。
働いていると、ふと『ここは自分の居場所ではないな』と思うことがある。
きっかけとなるパターンは2つある。
1つは『自分はここでは必要とされていないな』と感じたとき。
このパターンは入社してすぐに気づくことが多い。
働くことへの考え方だったり、信念だったり。
そういったものが社や同僚とうまく噛み合っていないと、なんとも居心地が悪い。
もう1つは『ここではもう得られるものがないな』と感じたとき。
このパターンは長く同じ所で働いていたときに突然、訪れる。
自分の目標も、同僚との付き合いも、全てが停滞しているように感じてしまう。
退屈でたまらなくて変化を求めはじめる。
どちらのパターンにせよ、自分の居場所ではないなと感じたときは、なるべく早めに立ち去ることにしている。
日本では働くことについて『長期』『安定』『継続』が【良いこと】とされ、望まれる。
長く積み重ねることは確かに良いこともあるが、本当にそれだけだろうか。
義理人情を重んじるこの国では難しいことなのかもしれない。
けれど、巣立とうとする背中を後押しする、そんな社会があってもいいのではないか。
……そんなことを思い浮かべて、今日も月曜日がやってくる。
ここは自分の居場所であるか、と問いかけながら。
一週間がまた始まる。
空を見上げる時間は贅沢だと思う。
出かける時に今日は晴れか、雨か、曇りか、の確認で見上げることはある。
けれど、日常的に空を見上げても特に得られるものはない。だから空を見上げるという時間は贅沢だと思う。
でも、子供の頃は違った。
訳もなく何度も空を見上げたし、その度に雲の形が面白いなとか、この空はどこまで続いているんだろうとか、いろいろなことを夢想した。
成長し、社会に出て、日々の生活に追われて、空を見上げることより大切だと思うことがたくさんできて、変わってしまったけれど。
今日、このお題に出会えて、また訳もなく空を見上げるのも悪くないんじゃないかと思った。
きっと空を見上げる余裕のない今の自分は、自分のことでいっぱいいっぱいになっているのだと思う。
また訳もなく空を見上げてみたら、少しは周りを見る余裕を持つことができるんじゃないのかな。
いつか遠くの空の下の誰かのことを思えるくらい、余裕のある人間になれたらいいなと思う。