今の自分にとって病室は、小さいけれど天国だ。
快適な空調に、バランスの取れた食事が三回、決まった時間にとれる。
朝の回診が済めば、あとは何をしていても自由だ。
消灯時間になって電気が消えたら、眠るしかない。
この5年、食事も睡眠もロクに取れず、ただただ働いてきた。
よく生きていたと思う。全部呑み込んで、結果がこれだ。
何度も死にたいと思ったけれど、いざ病気を告げられると、死ぬのは怖い。
生きていたいと思った。
でも幸い、死ぬまでの病気ではなかった。
「明日、お見舞いに行きます」
届いた素っ気ない文章に、そういえば病院嫌いだったなと、少しだけ笑ってしまった。
翌日、オドオドしながら病室の入り口に現れた。目が合うとあからさまにホッとした顔をして、小さな一輪挿しと、蕾のついた短い枝を一本差し出した。
「もうすぐ咲くと……思う」
花は嫌いだとか、病人に水換えをやらせるのかとか、色々と言いたいことはあったものの、「ありがとう」だけを伝える。
お互い病気のことには触れず、病室は空調がきいているから、花は咲くだろうということだけを話した。
何かを待ち遠しいと思ったのは久しぶりだ。
毎朝水換えをして、一輪挿しを日向に置く。
退院までにはきっと咲く。
「明日、もし晴れたら」
「うん」
「どこへ行こうか」
お日さまを見なくなって、もう何日になるのだろう。このやり取りも何度目か。
「晴れたら、何をしたいかな。たくさんありすぎて困っちゃうね」
明日は晴れますように。
毎日、毎日、毎日、祈りながら眠るのに、神様はちっともお願いをきいてくれない。
「これじゃあ、カビが生えちゃうね」
「カビは嫌だな」
「あきらめちゃダメだよ。願いは絶対に叶うからね。願い続けよう? あきらめちゃ……ダメだよ」
つまんない冗談とか散々言ってたくせに、昨日の夜は、ゼンマイの切れたオルゴールみたいに言ったっきり、黙ってしまった。
「ねえ、カビちゃった?」
返事はなかったけれど、聞こえてるだろうって思って続ける。
「晴れたら。一緒に海に行こう。電車に乗って。で、歩いて歩いて。バカみたいに歩くんだ」
きっと気分がいいから。
「海じゃなくてもいいよ。観覧車に乗るってのはどう? 高いところ大丈夫かな」
ずっと一緒にいたのに、知らないことだらけだって、気づいた。
「どこに行こう? 何がすき?」
「ママぁ、このてるてる坊主さんたちどうしよう」
「えー? どうする……って?」
「お願いかなえてくれたら、なんかあげるって」
「あぁ。お歌にあるねぇ。晴れたら、銀のすずあげよって」
「じゃあ、銀のすずあげようよ」
「今、おうちにすず、ないから、またね」
「ふぅーん。てるてる坊主、またね」
自分の形が保てなくなるんだって。
「だから、一人でいたい」
言われたけど、全然気にしないよ?
「一人反省会」が得意なの、知ってるよ。
でもたまには参加させてよ。で、応援させて?
澄んだ瞳で真っ直ぐに見つめられたら、泣きたくなった。
大事にしまっておいて、時々取り出しては、光の下で眺めたくなるビー玉みたいに透き通った瞳。
自分の言ったことが、普通じゃないなんて、ちっとも疑ってない。
だったらこっちが間違ってるって、その方が全然マシだった。
そんなんで成り立ってる世界ってなんだよ。
言っても伝わらないの分かってる。でも、しょうもないひとり言くらい、言わせて。