流れ星が願いを叶えてくれそうな気がするのは、きっとあのちいさな炎が燃え尽きて、もう消えてしまう寸前だからだろう。何億光年か先でわたしたちのために光るいのち。その上にほんとうは誰が立っているのかを知れるとき、わたしも跡形もなく消えている。
月はきれいだけれどなにも叶えてくれない気がするな。あそこは竹から生まれたわがままなお姫様が治めていて、兎が住んでいる不思議の国、昔からそういうことになっている。
勝手に満ちたり欠けたりするし、太陽を食べたりするし、月はいつだってわがままなお姫様そのものだ。わたくしと結婚したければ地球を持ってくるのです、なんて言われたら兎たちはどうするのだろう。
すくなくともお餅なんてついていそうもないな。
願いをかけるなんておこがましい。
願うためのものだ、あの朧げで傲慢なうつくしさは。
(月に願いを)
わたしは雨である。
雨というものは表現手法においてまったく便利な代物で、いついかなる時も適当に降らせておけばよいのである、と思われている。
悲しみや希望やエモみを付与するために塩胡椒感覚で振られるこちらの身にもなってほしいものだ、と食品界隈にぼやいたら「それはどっちかというと僕みたいな感じだよ。なにと合わせてもなんとなく合ってしまうんだ」と卵に言われたし(卵のやつは食べられる側のくせに妙なドヤ顔を浮かべていた)、デジタル画材界隈からは「わかる、戦場塵ブラシみたいなものだよね」と言われてしまった。戦場塵ブラシ?
戦場の塵とは、雨が降るような感覚で降っていいものなのだろうか。わたしには到底理解が及ばない話題だった。
こうしている間にもまた連続ドラマの演出としてお呼びがかかっている。
わたしは誰よりも多忙な俳優のはずなのだが、知名度はまったくの無であるし、スタッフロールにクレジットされたこともない。永遠の友情出演・雨。ただし誰とも友人になった覚えはない。
一度でいい、わたしも米津玄師やYOASOBIや福山雅治になんか良い感じのエンディングテーマを歌われてみたい。だが、いや待て。一番わたしを酷使しているのは作詞家と小説家ではないだろうか?
今日も何かが行われているのだろう。
雨の酷使が止まらない。
仕方がないので回数券を採用することにした。今後奴らが「雨」というフレーズを使用するたびに百円を徴収してやろう。十回使えば一回おまけがついてくるのだ、お得だろう。
雨の降らせ放題は本日をもちましてサービス終了させていただくことにする。
君たちも雨のサブスクリプションに加入しないか?
(降り止まない雨)
怪しい神様が過去の自分に会えるというから、人生の攻略本を書いて渡してあげた。
現代に戻ってきても何も変わっていなかった。
たぶん読まずに置いてあるか、なくしたのだろう。
でしょうね。君はそういうやつだ。
(あの頃の私へ)
別れの挨拶は祈りなのだ、と唱えたひとがいる。
もう二度と会わないことを願ってさようならと、また会えることを願ってまた明日と、口が滑るその一瞬だけ誰もが無邪気な魔法使いになる。
さようならの呪文は滅多に効かないし、また明日に裏切られた日は世界が凍る。それでも勝手にやってくる明日へほんのすこしだけ反抗するために、はじまりの魔法を使ったひとがいる。
すべてのさようならが優しくならない今日だから。
わたしは顔も知らないあなたたちに、また明日、と唱えることにする。
(また明日)
都会を歩くひとたちはみんな透明だ。情報の洪水でわたしたちの色温度は希釈され、水びたしの街には水面に反射された空と高層ビルだけが取り残された絵画のように映っている。
コンクリートで舗装された歩道の合間で、さみしさを埋めるために咲かされた紫陽花は、すこし汗ばむような初夏の空気に囚われている。あのちいさな花々を囲む川辺の散歩道の上で、子どもたちが川に向かって石を投げているのを見た。
通りすがりの透明人間は、石がぽちゃんと川に落ちる音が聞こえないことに気づいてふり返る。そのとき音にも透明な音があるのだと、識る。
子どもたちのちいさな掌に石は握られていなかった。ああ、あの子たちは透明な石を投げているのだと思った。ここには石すら落ちていないのだと悲観することもせず、想像の翼で石を空に羽ばたかせている。
子どもたちが声をあげながら走っていったあと、わたしにもすこしだけ色が戻った気がした。それが何色なのかは誰かが決めることだ、わたしはわたしの無色だけを見つめている。
(透明)