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6/21/2024, 8:29:46 AM

あなたがいたから、に続く言葉は大抵「私」や「僕」である。
だが私にとって「あなた」の存在は、私の有り様を規定する独善性を許しはしない程に大きく光っていた。これは比喩では無い、「あなた」は満月である。その匿名性に託けて私はこんな所で「あなた」について書くことができる。満月が月に一度、私たちが自分の生活に必死な最中、それを忘れさせるほんの少しばかりの浮つきに訪れるのは、皮肉な事に私にとっては希望である。
過ぎし日の穴は満ちた月だけが埋めていく。あの日々は「あなた」の声で満ちていた。月が綺麗で、月が綺麗で。
月の美しさを文豪は愛に喩えた。それに倣うように人はまた、月の美しさをまるで月が扱える物のように扱った。私はそれを聞く度に侮辱された思いである。人が言葉にする月の思いに私は嫉妬している。それは浅はかなものだと、私の想いは深く満ちていると信じている。
「あなた」を忘れる日はない。「あなた」が今を生きることもない。私はもうやわな期待を寄せていない。アポロの月面着陸が詩人から月を奪ったとしても、満月は何も変わらない。あの日々は満月の声で満ちていた。「あなた」が綺麗で。「あなた」がいたから、満月がいたから、夜は許しの空気を纏った。

6/20/2024, 7:37:28 AM

少年の日を思い出すとチャイムが鳴る。軋む椅子の音と乱暴に開けられるドアの音を、皆の足音や奇声が掻き消す。机がキリキリキリと動き、それを囲う人たちは消しゴムを片手に真剣な顔をしていた。そろそろ来る頃かな。期待を寄せて何度もドアの方を覗き見た。見覚えのある赤いスカートが見えた。僕の方に横目をくれた金出はそのまま前に進んだ。これが僕達なりの合図だったのかもしれない。僕もまた、椅子から腰をあげる。机の方にいた人達が僕の方を見ている気がしたけれど、それを金出に言ったら“自意識過剰”だと言われた。金出はいつも図書館の座敷の端で本を読んでいる。金出の読むスピードは信じられない程早く、僕は最初読んでるフリなのではないかと疑っていたが、同じ本を読むと僕よりも内容を覚えていたものだから恥ずかしくなった。金出の薦めてくれた本は、今まで課題図書で読まされてきた本や家にあった漫画とは比べ物にならない程に面白かった。まるで金出がその本を僕の奥底から引っ張って来ているのじゃないかと錯覚する程に、僕の心によく染みた。最初は僕も読書が好きなんじゃないかと思って自分で幾つか本を手に取ってみたけれど、その本の文字は何度追い直しても上滑りするようで、そんな期待は最早捨てて素直に金出の薦める題名や作者の本を僕は探して読むのだった。そう、探したのだった。金出が僕に本を手渡したのは最初の1回だけだ。それ以降僕には言葉で題名や作者を伝えるばかりで、最初はどうすればいいか分からなかったけれど図書館での本の探し方を知ってからは金出の言った言葉をきちんと覚えておいて、時にはメモをして僕は金出について行くように図書館に向かい、今日も探したのだった。