心と心
手のひらに澄んだ 水をすくって
お前の喉に 流し込む
そんな不器用で 強く優しい
つながりは ないもか
恋人よ 愛なんて言葉は捨てろよ
流行りの服も 生き方も 疲れるだけさ
裸足で 青い草を踏みしめ
この胸に 駆けて来い
飛び上がってもいだ 青いリンゴを
かわるがわるに かじり合う
そんな飾らない だけど確かな
つながりは ないものか
恋人よ 愛なんて言葉は捨てろよ
生まれたままの 真心をくれればいいさ
かわりに誰も やれないものを
その胸に 伝えよう…
「時代遅れの恋人たち」 作詞 山川啓介
40年来の男友達、将来を共にすることもあったかも知れないし無かったかも知れない、けれど私は確実に貴方に出会えて良かったと言い切れます。何故なら例え一時でも共に歩いた軌跡は、その足跡から綺麗な花が咲くほど、私の心の柔らかい場所にあり続けるからです。たった一時の溢れるほどの日々で、心と心向き合えたことは私の宝物だからです。
選ばなかった未来、選ばなかった関係もだからこそ大切な心と心を教えてくれました。
「時代遅れの恋人たち」1970年代の青春は不器用で熱いね、だから優しい。優しさとは寄り添うことばかりではない、時には突き放すことも優しさで別れも優しさで悲しみも優しさ、昔の人は強いね、こうして人は強さを覚えまた優しさも覚える。優しさとは寄り添ってもらうことばかりを求める事ではない。寄り添ってもらえなかった時、突き放された時に悪者になったその人の優しさに気づける時が来た時、その人がくれた強さから厳しさから何かを想像出来た時、人は優しさを覚える。
優しさも随分様子が変わったようです、「大丈夫?偉いね、大変ね、頑張らなくて良いからね…」優しい人ってそんなだろうか?「まだまだ、諦めるな、足を前に出せ、頑張れ、負けるな」無神経に笑い続ける、あなたが怒れるくらい、あなたが泣けるくらい、そして「バカヤロー!」って言って背中を押してくれるような人、無神経な優しさってのもあるんだよって言っても、王子様は白タイツにカボチャパンツで白馬に乗って現れてレディーファーストのフェミ男でなきゃならない少女漫画のヒロインさんには伝わらないかも知れない。
「日本沈没」の小松左京はアイデンティティについてこんな言葉を残している、「アイデンティティは時と共に風化し原型を留めなくなってしまう、けれどもそれでも生き続けること、それこそがアイデンティティというものである」と、日本人のなんたるかなんて時代と共に変わり1970年代の青春像は、その時代ですら「時代遅れの…」と言われたものがあるが、それでも1970年代の社会は若者は、その「時代遅れ…」を 許容出来たが現代のZ世代には最早無理です。やがて日本人も変わってしまう、それは私たちが鎌倉武士の価値観を野蛮だと感じるのと同じであるのかも知れない。きっと書く文字も言葉も変わってしまうのかも知れない24世紀くらいの日本人と私たちは。
それでも、人が人であり生身の体であれば心と心を交わし合うことは出来るのかも知れないと思いたいが、貼付け獄門晒し首や市中引き回し見物はやはり昭和のアイデンティティには無いし、きっとそれと同じように、突き放したり殴り合ったりする優しさや友情はアイデンティティから失われて行くのだろうなと寂しく思う時代遅れの昭和人だった。
頑固親父、雷親父、地震雷火事親父、火事と喧嘩は江戸の花、寅さんの口上、いらちの浪花節、短気は損気は、短気な人は損をするって例え。穏便な人が偉いってことばじゃなく、落ち着いて物事考える人に利用されやすいから気をつけてって意味ですよね(笑)あぁ、それから金八先生の説教、Z世代は寄り添って持ち上げてもらってばかりだから本当説教嫌いだよね(笑) いや、下町って風情や人情紙風船も最早Z世代には意味不明になっているようだわ(笑)
令和6年12月12日
心幸
何でもないフリ
何でもないようなことが
幸せだったと思う
何でもない夜のこと
二度とは戻れない夜
まるで子供のように、微笑みを浮かべたまま眠れぬ森の少女。ちょうど一年前、この道を通った夜、雪がちらついていた。借りたての部屋の中に突然闇を落とした、悪夢のような電話。駆けつけた病院、病室のベッドの上まるで少女のように、微笑みを浮かべたままで眠れぬ森の少女。
何でもないようなことが幸せだったと思う、何でもないような夜の事、二度とは戻れない夜。
それでも月日は、また流れ何でもなかったかのように過ぎ、何でもなかったフリをして生きて行く、許せない誰が悪いと言ってみても、眠れぬ森の少女は目を覚まさないし、閉ざされた目は二度と開かない。だから、彼は何でもないフリをして生きました。
それから、どれだけ時間は流れたでしょうか、彼も歳をとりましたが、写真立てに飾られた彼女は歳を取りません。そんな彼の心が動きました、何でもないフリをして何でもなく砂漠の中を歩いていた、何でもない何でもないと歯を食いしばり生きました、ふと見ると砂漠の薔薇が咲いていた、彼は足を止め砂漠の薔薇を砂の中から拾いあげて掌にのせました。すると砂漠の薔薇は白い手をした女に変わりました、女は彼を見つめてこう言いました「見つけてくれてありがとう」彼らは、その夜から手を繋いで眠りました。また、時間は流れて、共に時を重ねた二人の髪の毛には白いものが混じるようになりました、子供たちも巣立ちました。それでも二人は手を繋いで眠ります。
写真立ての少女は遠い遠い記憶の中で今夜も微笑みを浮かべたまま美しくキラキラしています。
年老いた女は、いつもいつも何でもないフリをして、その写真立ての写真をピカピカにして綺麗なお花を飾っています。
そしてその写真の中で微笑む少女に語りかけます。「ありがとう、あなた。あとどれくらい生きられるか分からないけど、私はあなたの生きたかった人生を貰いました。どうぞ恨んでください。もし、彼が記憶が曖昧になり周りの事がよく分からなくなる時が来て、自分の右腕にあなたの名前を呼びかけても、私は何でもないフリをして、あなたごと彼を抱きしめます。いいでしょ、それくらい私は幸せでした、ありがとう、あなた」
「ロード」
作詞 高橋ジョージ
リスペク・トオマージュ・インスパイア
「 STORY 何でもないフリ… 」
令和6年12月11日
心幸
追記
フリは嘘だ?阿呆だねあんた、嘘だから悲しくて優しくて深いんじゃない。あの世まで持ってくつもりのフリ(嘘)は誠を孕むんだよ!ガキはこれだから駄目だね(笑)フリだ何でもないフリが嘘で苦しい?まだまだそれは覚悟のない嘘だと心得よ、覚悟を持ってフリを貫けばそれが本当になります、それが嘘から出た実(誠)と言います。
仲間
ここに、孤独に独り大人子供部屋で架空の彼女の白くたおやかな腕を夢見る男がおりました。
ここに、結婚わずか一年で夫の一面だけで結婚の全てを理解したような気になって、自分のひどく少女趣味な王子様像を夫にあてはめては自分の不運を嘆く女がおりました。
二人は仮面をつけた名無しの暗闇の中で知り合い仲間になります。
互いに、臆病で狭い世界でいる事で独善的になっている事に気づけない二人でしたが、たまたま二人は自分が孤独であり自分が誰かの犠牲になっていると思う点で共感性が働き、互いに自称繊細で常識人であると自分を認識しているため、そして変に自分の知識に自惚れで経験よりも知識でものを推し量り意見を述べるのでいつも的外れであるという点でも共通しているようでした。
自然に二人は仲間になり惹かれ合い同士になりました。
この闇の世界において、この世間知らずの二人はお似合いでした。
おめでとうございます。
リアルで見つけられずに大人子供部屋に引きこもった王子と、自分の目の前にいる夫の一面だけで全てを見た気になった可哀想なシンデレラはお似合いのカップルになりました。
烏合の衆も同じ穴の狢も仲間は仲間(笑)
令和6年12月10日
心幸
手を繋いで
寒い夜は 手を繋いで眠るのが
いちばん温かい
寒い日でも 昼間は一度だって
手を繋ぐなんてない
あなたは何時も先を歩いて
わたしはあなたの背中見つめて歩く
手を繋ごうとしても 振り払われた
若い頃
今も同じ何時も先を歩いて
わたしはあなたの背中見つめて歩く
あの頃と違うのは あの頃よりも
開く距離に
あなたは時折振り向いて
待っている待っている顔を見つめて歩く
わたしはあなた見つめて あの頃よりも
ゆっくり歩く
寒い夜は 手を繋いで眠るのが
いちばん温かい
寒い日でも 昼間は一度だって
手を繋ぐなんてない
今も同じ 何時も同じぶっきらぼうで
照れ屋で温かい
あなたの手が とても優しいことを
わたしは知っている
いつも、人様の詩を拝借しているので
今夜は、自作にしてみました。
はい、幸せ自慢でございます(笑)
何方かのリスペクトオマージュでパクっちゃってないつもりだけど、知らずにインスパイアされていましたら悪しからず、素人の寝言でございます。いや、起きてるけど、この時間に寝落ちするほど子供でも年寄りでもないしワラワラ
「手を繋いで」
心幸
令和6年12月9日
ありがとう、ごめんね
可哀想な、可哀想な、独居の独り住まいで部屋も散らかり放題で、そのうえ、そんな部屋の片隅で膝を抱えて悶々としているなんて、、と他人事ながら気の毒に思えたわ。
ありがとう、ごめんねも、喧嘩も仲直りも相手が居るから出来ることよ。
ありがとう、ごめんねは、セットにはならない
感謝の気持ちと謝罪の気持ちは別物。
ありがとう感謝の気持ちは、どんな時も先ず相手に伝えたい気持ち。
でも、ごめんね謝罪の気持ちは、許されるためにすることなので、「ごめんね」と言って「許さない」と言われることもあることを分からなければならないし、「ごめんね」と言われて許さない相手を悪者にしてしまうかも知れないことを考えて発しなければならない、だから「ごめんね」は相手の「もういいよ」が無ければ使うべきではない言葉だ、本当に本心から罪の意識があるなら言葉ではなく態度で示すべきである。
「償い」 作詞 さだまさし
月末になるとゆうちゃんは 薄い給料袋の
封も切らずに
必ず横町の角にある郵便局へと飛び込んで行くのだった
仲間はそんな彼を見てみんな貯金が趣味のしみったれた奴だと
飲んだ勢いで嘲笑ってもゆうちゃんはニコニコ
笑うばかり
僕だけが知っている彼はここへ来る前にたった一度たった一度だけ哀しい過ちを犯してしまったのだ
配達の帰りの雨の夜横断歩道の人影にブレーキが間に合わなかった、、彼はその日とても疲れていた
人殺しあんたを許さないと彼を罵った被害者の奥さんの涙の足元で彼は泣き乍らただ頭を床にこすりつけるだけだった
それから彼は人が変わった何もかも忘れて働いて働いて償い切れるはずもないがせめてもと
毎月あの人に仕送りをしている
今日ゆうちゃんが僕の部屋へ泣き乍ら走り込んで来た彼は一通の手紙を抱きしめていた
それは事故から数えてようやく七年目にはじめてあの奥さんから届いた手紙
「ありがとう あなたの優しい気持ちよくわかりました だからどうぞあなたご自身の人生をもとに戻してあげてください」
手紙の中身はどうでも良かったそれよりも
償いきれるはずもないあの人から
返事が来たのが ありがたくてありがたくて
ありがたくて
神様って僕は叫んだ
彼は許されたと思っていいのですか
来月も再来月もずっとずっと郵便局へ
通うはずの 優しい人を許してくれて
ありがとう ありがとう ありがとう…
長くなる為一部、割愛創作してます 悪しからず
謝罪の気持ちは言葉ではなく行動で
愛の償いは別れ、軽々しくごめんねと言うのは子供。
令和6年12月8日
心幸