神様が舞い降りてきて、こう言った。
「ギフトをあげよう」
それは、特別な力ではなく、お前に見合った十字架。
十字架は背負う者の器に比例する。
イエス・キリストは私たち兄弟姉妹の全ての罪という十字架を背負いゴルゴダの坂道を歩いた。彼は言うだろう「人の為にあらず」と。
神様が舞い降りてきて、こう言った。
お前に見合った、十字架しか与えない。
試練の少ない奴は向こうではぺいぺいの末席
大きな試練を背負った者は神様の右の座に座る。
神様が舞い降りてきて、こう言った。
「命をあげよう」
「ギフトをあげよう」
「お前に見合った十字架を」
「試練来い!」
令和6年7月27日
心幸
誰かのためになるならば
って考えてる時点でとても他罰的で傲慢で自意識過剰だと思う訳だが。
「情は人の為ならず」なのですよ。
ごめんねって言いながら悪口言うのそれってナニ?
ごめんねって言ったら何言っても許されるとでも思ってる?
幼稚園児か!?
ごめんねって言われて自分の自分の力じゃどうすることも出来ない何かを罵られても君はごめんねって言ってもらったから許さなきゃだね、ごめんねって言って誰かのために誰かの悪口を言うのだから。
誰かのためになるならばと思って行動を起こすなら、言い訳謝罪は無用です。
だってそれ誰かのためにじゃなくて自分のための謝罪と言い訳だからです。
誰かのためになるならばと行動しこれこそ正論と言うのなら反論も憎まれ役も覚悟すること!
それが出来ぬのなら、幼稚園児みたいな「ごめんね」言ってからの悪口は初めからヤメておけ。
令和6年7月26日
心幸
鳥かご
逢いたさ見たさに怖さを忘れ
暗い夜道をただ一人
逢いに来たのになぜ出て逢わぬ
僕の呼ぶ声忘れたか
あなたの呼ぶ声忘れはせぬが
出るに出られぬ籠の鳥
籠の鳥でも知恵ある鳥は
人目忍んで逢いに来る
人目忍べば世間の人が
怪しい女と指差さん
怪しい女と指差されても
誠心こめた仲じゃもの
指を差されちゃ困るよ私
だから私は籠の鳥
世間の人よ笑わば笑え
共に恋した仲じゃもの
共に恋した二人の仲も
今は逢うさえままならぬ
ままにならぬは浮世の定め
無理に逢うのが恋じゃもの
逢うて話して別れるときは
いつか涙がおちてくる
おちて涙は誠か嘘か
女心はわからない
嘘に涙は出されぬものを
ほんに悲しい籠の鳥
「籠の鳥」 作詞 千野かほる
作曲 鳥取春陽
大正14年
大正ロマンだ、いくら日本人だ大和撫子だ大和魂だと現代の私たちが騒いでみたってこの男女のやり取りを切ない気持ちで聞けなければ何のアイデンティティであろうか?と思うのである
女は妾のおかこいさん。
男は旦那以外の若い書生とかであろうか?
夏目漱石の「それから」
宮尾登美子の「櫂」の世界か・・・それさえ知らぬ子供の頃祖母の収集していたレコードの中にこのレコードを見つけた、歌詞が全く見当もつかない心持ちを歌われているのだということだけは子供心にも分かった。
「無理に逢うのが恋じゃもの…」この歌詞だけがなぜかしら心に残り小学生は赤いランドセルを背負いながらこの歌を口ずさみながら下校していた。
歌うときは何時も映画で観た格子の中でお客を待つ遊女の姿が浮かぶ。
吉原の大門を見たこともないのに目に浮かぶ
その世界の躍動感が胸をうつ。
小説みたいな詩だ。
鳥かごの中の籠の鳥。
令和6年7月25日
心幸
友情
不思議な友情だと思っている。
その子はある日突然現れたblueのマントを纏ってけれどそのblueのマント以外なにも知らなかったけれど遠い昔から知っていたようなそんな気になるblueのマントに隠れた顔も声も知らない子だった。
わたしたちはこの仮想空間の中で出会い互いの趣味を知り語り合う、またここでと約束もせず
それでももうかれこれ6、7年はそうして続いている勝手に友情を感じるblueのマントの名も知らぬ顔も知らぬ本当のところは何も知らない、けれどここで語る君も本当の君だと信じるワタシをワタシは信じる。
何時までもそこに行けば会えると思っている
blueのマントを纏った君に。
きっと、友情は友に抱く情なので見返りなんて求めないから友情なのでしょう、共に抱く情みたいに見返り求めるのではなく友に抱く情それが「友情」ってものなのでしょう。
令和6年7月24日
心幸
花咲いて
花よ花よ花は咲く
花の命は短くて
苦しいことのみ多かりき…
生きることが辛いとか
苦しいだとか言う前に
野に育つ花ならば
力の限り生きてやれ
「生きてやれ」って言葉が好きですねこの歌。
大空と大地の中で 松山千春。
やっぱ松山千春も長渕剛もロン毛でフォーク・ソングの頃が良かったよね。
花は咲く前が美しい。
令和6年7月23日
心幸