夜も深まった頃、硬いベットで私はバイクの喧しいエンジン音をぼうっと聴いていた。この閑静な住宅街で走り屋なぞよくやるものだ。何が楽しいのかわからないが、わかりたくもない。
ごろり、と寝返りをうち、部屋の壁を見つめる。
「……。」
エンジンの音は過ぎ去り、再び静けさが訪れる。それでも私は眠れなかった。
別に、直前までスマホを見ていたとか、コーヒーを飲んだとか、お昼寝をしたわけでもない。不眠症などでもない、一般的に健康な成人女性だ。
ふぅ、とため息を吐く。
眠れないのは、将来の不安だろうか、仕事や勉強が億劫だからだろうか。或いは、恋煩いか。
最近越してきたお隣さんが殊更美丈夫で、歳も案外私と変わりなさそうで気なっているというのはある。生々しい話だが、この壁の薄いアパートで情事の声が聞こえないところを見ると恋人はいないように思う。
ベタだが、わざと手料理を多めに作っておすそ分けでもしようか。家庭的な女アピールだ。いや、いきなりそれは気味悪がられるか……?などと自問自答する。
そういえば、今日の夕食――正確には日付を跨いでいるので昨日だが――は、カレーを作った。私は具材で鍋をいっぱいにして作るのが好きなため、まだ残っている。
そこまで考えて、ああ、思い出さなければよかったと後悔した。
――腹の虫が盛大に鳴る。
「今から食べたら太るよねぇ……」
眠れない理由は明白だ。絶賛ダイエット中な私は、お腹が空いて眠れないのだ。
「春雨スープならセーフかな、うん」
とひとりごち、ベットから勢いよく降りキッチンへ向かう。
結局、残りのカレーも食べてしまったことは記憶の彼方に葬り去った。
空が高かった。
立入禁止の屋上で、フェンスにもたれかかってぼくはひとりそれを見上げていた。そのままズルズルと座り込み、遂には仰向けで寝っころぶ。
プラネタリウムは総じて夜空だが、こんなに澄んだ空なら別に青空でも悪くないだろうと思った。見えるのは青と白と眩い光だけだが。
「……すぅ、はぁ」
深く呼吸をしてみる。些か緊張していたのだ。緊張と、寂寞とした孤独感。みんなが、人生を全うしているなかで、ひとりでいることがどうしようもなく虚しい。だれも、迎えに来てはくれない。
こうしていると季節の移ろいがよく分かる。地球温暖化だなんだで夏と冬しかないと言う人もいるが、まだまだ秋は存在している。このよく冷えた空気がそれを物語っていた。
ぼくは夏のままの格好ため、ひとりだけ季節に取り残された気分になる。先程からキャアキャアと姦しい笑い声をあげながらグラウンドでテニスをしている女子たちはもう長袖のジャージ姿だ。
こうしてぼんやり物思いに耽るのもたまにはいいなとぼんやり思った。
――さて、前置きはここまでにして、フェンスの向こう側、ほんの数十センチのへりに色の白い、アクリル絵の具の白を塗りたくったような少年が佇んでいた。先程からこちらを一瞥もせずに、ただじっとどこを見るでもなく存在していた。
格好はぼくとは真逆で、学ランの上に白の厚めのコート、白のロングマフラーに顔を半分埋めていた。半袖のシャツに制服のズボンのままのぼくからすればあたたかそうでいいなぁ、と思うが、流石に季節を先取りし過ぎではないか。
「まだはやいんじゃない」
寝転んだまま声をかけた。「こっちきなよ、案外悪くないかもよ」
少年はやはり一瞥もくれずに、「やだよ、あつくなる」と冗談めかしていった。
まぁ、たしかにそこよりかは風の通りは良くないかも知れないが。
ぼくは、もうずっとまえからこのわずかな時期、あつくもさむくもないこの一瞬だけ、彼と会っていた。まぁ、こっちを見てくれたことなどないのだから、「会う」なんて表現は相応しくないのかもしれないけれど。
「さむいなら、無理して居なくてもいいのに」
と彼は冷たく言った。顔をちゃんと見たことはないが、きっと驚くほどの朴念仁なんだろう。
いくらあつくもさむくもない一瞬だからといって、ちょうどいいわけではなかった。僕にとっては、身が凍るような感覚だった。それでもここにいるのは、彼の至る世界を知ってみたかったのだ。水の青ではなく、氷の青。入道雲の白さではなく、雪の白さ。灼くような光ではなく、暖かな光。
これらを知りたいと思いここに居るが、どうやら今年も無理そうだ。
「友達になりたかったな」
ぼくはぼやく。
彼は乾いた声で、「溶かされてしまいそうだから、やめてくれよ」と呟いた。
「また来年」
「……また来年」
そうお互い言い合って、短い逢瀬は終わった。