踊れと言われたなら、真っ先に嫌だと答える自信がある。というか、急に踊れと指示されて従う馬鹿がいるのだろうか。せめて、理由を聞いてから行動するべきだろう。舞踏会の舞踏家がバックれたとかならまだ分かる。だが、特にそういうイベントがある訳でもない。
なのに、目の前の男は私に踊れとしきりに淡々と声をかけてくる。いい加減にしてくれと言いたいが、その余裕もないくらいに目の前の男へのイラつきが増していくのだけを感じた。
私の心電図は、踊るように動いている。
お終い
偽善を装うのが、一番簡単で残酷な方法なのだ。だから、誰かが笑顔でいられる。けれど、その差分を担うために、知りもしない人間や知っている人間が苦しむ。
これが世界の仕組みであり普通なのだ。誰かが偽善という行いをしなければ成り立つことが出来ない世界に、我々人間はしがみついている。それ故に、そこで生きていくしかないのが我々人間なのだ。
いつか、偽善じゃないと呼ばれる時は来るだろうか。進み続ければ、時が告げてくれるだろうか。
そこに救いの時はまだ、告げられない。
お終い
貝殻は、部屋だ。自分を守るための硬くて分厚い壁であり自分でさえ出るのに苦労する部屋。人間の脳みそも似たようなものだ。あくまでイメージでしかないが、引き出しのようなものがあり、ラベルが貼られているのだ。
だが時に、いくつかラベルが貼られていないものもあったりする。それらは、大抵自分が掘り起こしたくない記憶だったりする。
だからこそ、開くのには覚悟が必要になるのだ。中身は開かなければわからないのだから。
覚悟はあるか?
お終い
飾り立てた誕生日カードには、蝋燭やケーキ、クラッカーと言った誕生日を連想させるイラストがきらめき合うように描かれている。
けれど、ここにあるものを付け足すとより華やかになるものがある。それは、誕生日の人の名前だ。誕生日ケーキに名前が描かれていると、今日は私の日だと感じる人もいるだろう。
だから、特別なものにきらめきを足すのだ。
きらめきがあるから、大事なものに気づくことができる。
お終い
些細なことでも、感謝するようにしましょう。私は、家族にこれだけは言い聞かせている。そのため、私が何か食べ物を与える時や欲しい物を与えた時には、決まってありがとうと言う子供に育ちました。
ですが、私には一つだけ不安なことがあります。それは、私が子供に教えている些細なことでも、感謝するという心がけが、他者との関係性からの刺激によって、それが当たり前であり感謝する必要がないなどという情報に上書きをされてしまう事なのです。
些細なこととは、当たり前であるとは限らない。
お終い