人は自分の考えが「正義」だと思っている。
たとえ意見がすれ違い、対話を試み、
相手の意見を尊重しながら謙虚に応対しようとしても
最後はどうしても自分の「正義」を
譲ることはできない。
その「正義」は自分が信じている物事の全てであり、
それを否定することは生存意義を失うも同然である。
その「正義」の対立の究極形が、戦争だ。
私達は自身と「正義」の価値観が似ているほうに
どうしても肩入れしがちだが、
もう片方の「正義」も
それを掲げるに至った背景や歴史を調べていくと、
それなりに「そう考えても仕方がないか」と
諦観できるくらいの筋は通っていることはままある。
どちらの「正義」も正しくて、間違っているのだ。
今、私が「正義」だと思っていることは、
他の誰かにとっては紛れも無い「悪」である。
だが、だからといってそれを捨ててしまえば、
私は自分を悪人だと責め続けるだろう。
生きるために、「正義」という名の「悪」を
振りかざし、手を汚し続けていることを
心に留めておかねばならないと思う。
秋晴れの日は絶好の旅日和だ。
紅葉のシーズンさえ外していれば、
おそらく1年間で一番快適な気候の中
おトクに旅ができる時期である。
快適な気候といえば春でも構わないのだが、
桜や春の花々が見頃を迎えたり、
新年度における人の移動が盛んだったりと
交通費や宿泊費がやや上がってしまうのが欠点だ。
秋は春よりもそのような旅費高騰の原因が少ない。
強いて言えば、先述の通りに紅葉だけである。
だから、この時期は高速バスや格安航空の
サイトを眺めて、行きたい場所を物色するのが
密かな楽しみである。
近場は行き尽くしてしまったために
遠出で旅の楽しみを得るしかない旅行好きにとって、
秋晴れは天恵なのだ。
私は放課後の帰り道の中で
とあることを日課にしていた。
それは、風景観察である。
通学路のルートは日によって
大きく変わることはない。
だからこそ、些細な風景の変化が際立つ。
今日の空は変な色をしているな、とか
昨日は蕾だった花が咲いた、とか
今日は用水路にザリガニがいっぱいいるな、とか
なんか新しい店ができているぞ、とか。
そうやって毎日間違い探しをしていた。
その日課は現在、思わぬ特技に昇華した気がする。
今までどんなに興味が無かったことや
経験していなかったことでも、
私的に面白いなと思う点を即座に見つけて、
楽しもうとする。
おかげさまで、他の人よりも多趣味で
心の支えが多い人生を送らせてもらっていると思う。
子供の頃の何気ない習慣が大人になって活きてくる。
だからこそ、後代の人々には
今のうちに色んな遊びをしてほしいと
大人心に思ってしまうのである。
自宅の家具の質にはそんなにこだわらない私だが、
色や柄、性能を唯一吟味して選ぶのがカーテンだ。
今のカーテンも自慢の一品。
色は緑、柄はボタニカル、遮光や遮熱は1級、
ひだの付け方も自分で選んだ。
窓のサイズが規格外だったために、
自分で採寸してネットのオーダーメイドで
頼まざるをえなかったことだけが懸念だったが、
無事クリアして部屋を飾ってくれている。
何故こだわるのかというと、このカーテンの
性能次第で部屋の良し悪しが変わるからである。
壁の一面を堂々と占拠するため、
カーテンの色味で部屋のテーマカラーが強制的に
定まってしまうし、
遮光の等級次第で開放的な部屋にも
秘密基地のような部屋にもなる。
昨今の気象を鑑みると、遮熱の性能次第で
冷房や暖房の効き方にも
差が出てくるのではないだろうか。
新居に長く住むことができるか、
その命運を握っているのは実はカーテンなのである。
「泣いてちゃわからないでしょうが!」
誰かに叱られている際に涙が出てしまうと
言われがちな言葉である。
子供の時に何度言われたことか。
この場合、私には2パターンの感情が渦巻いている。
1つは、自分の不甲斐なさに涙した場合だ。
相手の言い分に一字一句納得し、
失敗を犯してしまったり、期待に応えられなかった
自分を責めている。悔しさの涙。
もう1つは、理不尽に耐え忍んでいる涙だ。
この時は、相手の言い分には一切納得しておらず、
自分が正義であると信じ続けているが、
口下手なために説得や口喧嘩をすることができない。
反撃できない怒りが涙として発露している。
どちらにしろ、自分が可哀想だからとか
身勝手な理由では泣きはしない。
むしろ泣いたら負けを認めたとすら思っている。
いつか見返してやる。
いつか相手が羨むくらい立派になってやる。
女の涙など、反骨心マシマシで丁度いいくらいだ。