同じクラスの田中くんは、とても勉強熱心だ。
いつ見ても机の上には参考書やら百科事典やらが広がっていて、この前電車で見かけた時すら、ずっと何かの本を読んでいた。
普段は殆ど交流がないのだけれど、今日ふと興味が湧いて「いつも勉強してるね、勉強好きなの?」と声をかけてみた。
「ううん、頭の中に完璧な現実逃避空間を作り上げるために、現実のことを知り尽くしたいんだ」と、田中くんは答えた。
それは、本末転倒というものでは?と、僕は思ったけど、口には出さない事にした。
君は今、どこで何をしているのだろう。
帰って来ないメッセージの返信、電話を掛けても応答は無し。普段はマメに更新しているSNSにも現れる気配は無い。
まさか、何かあったのでは……不安に駆られた次の瞬間、スマートフォンが小さく2度揺れる。
「寝坊しました」
その知らせは可愛らしいキャラクターが土下座するスタンプと共にやってきた。
集合時刻は午前10時、現在時刻はもうすぐ正午。
握った拳を振り下ろさない代わりに、今日の昼飯は奢りなさい。
今日の仕事は至って平和だった。ミスもなく、トラブルも発生していない。だが、明日からが問題だ。
自分は人と話をするのが苦手だ。人と共有できるような話題も思いつかず、会話を上手く繋げることが出来ない。今日は良く喋れたと思った日も、その夜には無意識に失礼な事を口走ってはいないかと苦い反省会の材料になってしまう。それどころか、ちょっとした仕事の連絡でさえ、内心かなり緊張しながら伝えている始末。
根本的にコミュニケーションというものが向いていないのだ。
だが社会の一員として生きて行く以上それは避けては通れない。今脳内にこびり付いている新人指導という言葉が瞭然にそれを自分に突きつけていた。
何故こんな自分に御鉢が回ってきたのか、それはそもそもの人手の少なさと自分がこの会社に務めている期間がそうさせたのだろう。口下手ながらも必死に繕っている外面の効果もあるのだろうか。
しかし、長く仕事を続けていることと、その内容を上手く教えられるかは別問題。まるで何か恥ずかしい秘密でも話すかのようにしどろもどろに仕事を教える自分が目に浮かぶようだ。
あぁ新人よ、君はとても運がない。見るからに活発そうな君ならば社交的な同期の鈴木さんに当たればきっと良き時間が過ごせただろう。だが、君の担当は自分なのだ。恨むなら私を任命した上の者を恨みなさい。
負の思考の波に揉まれながら帰路を行き、溜息をつき、空を見上げる。星の無い、雲に覆われた物憂げな夜空だ。
いや、違う。空は物を憂いたりしない。
隕石が降って生物の75%が死滅しようがオゾン層に穴が空こうがUFOが飛んでこようが驚きも悲しみもしない。ただそこにあって、地上を紫外線から守り、水分を恵み、時に雷を降らせる。
……そうだ!空のように有ればいい!自分は空!自分は空!雨のように新人という名の大地に知識を授け時にパワハラという名の紫外線から守り時に雷のように厳しく……
これだ!なぜ今まで気が付かなかったんだろう!空は雑談もしない!空なんだから!道は開けた!今日は新たな境地に達した記念にビールを買って帰ろう!そうしよう!
翌日、無事正気を取り戻し、当初の予想通りしどろもどろに仕事を教える自分の姿がそこにはあったという