最初に思ったのは、どの口が。だ。
例え今はニンゲンの姿をしているとはいえ、この畜生だって理解している筈だ。
ブルースが。ぼくのブルースが。
かつて畜生共にも慈愛を恵んだ、最たる神の存在であることを。
「……貴公、近くへ」
畜生がブルースを呼ぶ。
なんたる傲慢だ。
跪かせたうえに、ぼくのブルースを呼び付けるなんて。
名を口にしない点では評価したが、あまりの狼藉に、つい、戸惑いながらも立ち上がったブルースの手を掴んでしまった。
「クラーク?」
ああ、ああ。
オドンを介しているにも関わらず、きみの奏でる音はどうしてこんなに甘美なんだろう。
きみの音だけが、ぼくの鼓膜を震わす。
「……ブルース、行かなくていい。きみが傅く必要はないし、きみの居場所はぼくの隣だ。用があるなら畜生からくるべきだ」
本来なら視界にすら入らない存在であり、仮初めであっても姿晒すことはないのだけれど、ブルースと同じ姿をとるが故、仕方なく現した体で、オドンの孕み袋を見据える。
オドンの子を宿す道具でありながら、ブルースに手を伸ばした、強かといえば聴こえはいいが、業の深い畜生。
大人しくオドンの精子を啜り永遠に産まれない血の赤子を求めれば良かったものを、あろうことかぼくのブルースに手を伸ばした汚物。
「クラーク? 何を…」
「お願いブルース。行かないで?」
「っ」
きみってば、ほんとうにかわいくて。
生まれ変わろうが、ぼくのお願いにはいつも甘くいてくれる。
だいすき。だいすきだよブルース。
「し、しかし、彼女が…」
「………構わない。貴公は特別だ。…そうだな、本来なら私から出向くべきであった。……これを」
玉座にしなだれかかる畜生がゆっくりと立ち上がり、ブルースの前へと歩み寄る。
途端漂うは鼻を付くような甘い気怠い香り。
棒切のような腕がこちらへ伸ばされ、その指先には小さな輪っかが鈍く輝く。
誘われるよう腕を伸ばしたブルースを遮り、代わりに僕がそれに手を伸ばした。
確認しなくともわかる。かつてブルースが生み出した、穢れたオドンの血族が唯一誇れる神との誓約の証。
婚姻の指輪と呼ばれる、上位者が特別な意味を込めて作る、赤子を腕に抱く者の誓約。
"ブルース"の慈愛が込められた特別な指輪。
差し出す指の向こう、畜生の表情が揺れた気がしたけれど、気にせず"ブルース"の遺物を手中に収めた。
ああ、ああ。なんということだ!
焦がれ諦めていたブルースの一部が、何の因果かぼくに廻ってきた!
これは、この婚姻の指輪だけは手に入らないだろうと諦め、なかったものとして記憶から消し去っていたのに!
ああ、ああ、奇跡だ。こんなに嬉しいことだ!
「クラーク、それは?」
「ふふ。これはね……」
そう口にして、はたと思いつく。
「ねえ、ブルース。きみの故郷では婚姻の指輪はどこにつけるの?」
「婚姻? 左手の薬指だが…」
「ふーん?」
ブルースの両手はどこにも指輪などはまっていない。
はまっていたとしても関係ないけれど。
「つけてくれる?」
「は?」
「これ。この指輪ね? かつての…そう、かつて存在した優しい優しい神さまが特別に誂えた、身に付けた人を護る指輪なんだ。だから、ぼくのだいすきなきみからぼくに、……贈ってほしいんだ」
ね、と促せば、ぼくのことをだいすきなブルースは、少しだけ赤くした耳先はそのままに、仕方ないな、と指輪差し出すぼくの指先に手を伸ばす。
婚姻の指輪。その昔、虐げられるニンゲンを想って作られた、ブルースの優しさがつまった指輪。ぼくもほしいとねだったけれど、ぼくのために誂えられた指輪に込められたモノは違うモノだった。それは当然で。だってブルースもぼくを愛してくれていた。憐れみなんかじゃない、ブルースの心臓が詰まった指輪。勿論それはそれは嬉しかったし、大切に大切に肌身は出さず持ってる。でも欲張りなぼくは、ブルースの生み出すすべてが欲しかった。
望めばなんでも手に入るぼくだけど、この指輪だけは終ぞ手にできなかった。
それが今、持ち主であるブルースのもとに戻り、ぼくへ贈られようとしている。
「いいのか?」
「うん?」
「左手の薬指で」
「うん。左手の薬指がいい」
溜め息を一つ。照れを隠すような仕草は昔から変わらなくて、つい目を細めてしまう。
愛しい愛しいだいすきなブルース。
ほんとうは生まれ落ちた瞬間からきみを拐って閉じ込めてしまいたかった。ぼくを、ぼくたちを思い出すまで真綿にくるんでずっと愛を囁きたかった。
あのあと。肉塊のままゆりかごの中で共に過ごすことだってできた。口に含んで永劫を共に歩むことも。
でも、でも。ぼくは見たかったんだ。
きみが望む夢を。きみが願う世界を。ニンゲンを愛するきみを理解はできなかったけど、できるだけ近くにいたかったんだ。きみの成すこと思うことをすべからくぼくも感じて、そうして微笑んですべてを包み愛し赦したかった。
かつてのきみが、そうしてくれたように。
ブルースの綺麗な指先が、ぼくの左手をとる。
左利きのブルースだからか、左手に指輪を、ニンゲンの赤い血が通う温かな右手がぼくの左手の甲に触れる。
滑らかなブルースの右手が戸惑うよう、ぼくの左手薬指を撫でた。早く、と急かすように下から重ねられた手を握れば、少しだけブルースの手が震えた。
ゆっくりとぼくの左手薬指に収まる、ブルースの慈愛が籠もった指輪。
銀色をした、デザインなんて何もないシンプルなソレ。
畜生に誂えられたはずの指輪は、不思議とぼくの指を締め付けることなく関節を過ぎていく。
それはそうだ。ブルースはあの畜生のために贈ったのではない。畜生から続く穢れた血族を護るために贈ったのだ。
代替わりを迎えても、加護が続くようにと。
銀色の輪っかが指の付け根に突き当り、ふ、とブルースが身体から力を抜くのが見てとれた。それがどうにもかわいくて、気付いたら抱き締めていた。
だって仕方ないじゃないか。ブルースがこんなときもかわいい。
「お、おい。クラーク」
「ふふふ。ごめんね。嬉しくってつい。そうだ、今度工房でブルースに指輪を作るね。強化結晶いっぱいの」
「不要だ。ずるはやめろといっただろ」
「えー? ずるじゃないよ。ちゃんとぼくがマラソンした」
「お前の存在がチートだからだ」
「えー!?」
ブルースを抱き締めたまま、左手に迎えた指輪を翳し見る。
指輪から微かに香る、"ブルース"の残滓とぬくもり。
いなくなってなお効力があるのは、それだけ強い願いが籠もっているからか。
懐かしく愛しい日々を思い出させる残り香に誘われるよう、対たる原初の上位者の一人であり、今はクラークと名乗るカル=エルは、鈍く光る銀色へと唇を寄せた。
end.