「願いが1つ叶うならば、私は芸術になりたいの。」「私は芸術なの。」
「へぇ。」
「だから私は、彫刻のように美しく、絵画のように深く、音楽のように綺麗なの。」
「それに君は、彫刻のように冷たく、絵画のように薄く、音楽のように耳障りだ。」
「ひどいわ。」
「刻むのも、描くのも、奏でるのも好きじゃない。芸術という君を扱うのは骨が折れるよ。」
「そういうものよ。」
「君自体が芸術とでもいうつもりかい? とんだ強欲な女だ。」
「えぇ、そうよ。
「あなたは神様が削りすぎた彫刻みたいね。」「絵の具をこぼした絵画。」「楽譜だけの音楽。」
「君の芸術で僕を貶していいのかい。」
「出来損なった作品は芸術じゃないわ。」
「じゃあ、君は失敗作や成立しない作品がなんの意味もなさないと。」
「えぇ。」
「足りない彫刻は何か別の意味を作るかもしれない。場違いな絵の具の絵画は新しい思いつきを誘うかもしれないし、楽譜だけでも残っているなら誰かが弾いてくれるかも。」
飽きた
名家・蓮見家は華族制度廃止に伴って没落の一途を辿っていた。太陽が毎日変わらず落ちるように、当然のように。だが太陽が翌日にはまた日を露わにするように、蓮見家の権力や財力が回復することはなかった。
父はとうに戦死して、母が長期間の闘病の末ついこの前に亡くなり、蓮見家の形だけの屋敷に残ったのは娘二人だけであった。父は最後までまともに家族と穏やかな生活はできず、母は娘二人を残して死ぬことを悔いていた。
蓮見家の全盛期の頃はもっと遠くの都会の方に大きな屋敷があり、常に整理された庭には専用の使用人がいて、いや、全ての場所に使用人がいた。ただ先述したように、一家の大黒柱の死や華族制度廃止に伴い、蓮見家は貧乏になり、使用人たちに払える賃金も、これから生きていくための金もなくなった。そのため長年親しんできた屋敷に別れを告げ、この都会だか田舎だから分からない閉鎖的な小さな屋敷に三人、引っ越してきたのである。(引っ越した当時は使用人が一人いたが、それは慈しみの心ひとつで無賃金でついてきてくれた人だった。ただ、現実は虚しく、時間が経ってそれも厳しくなり、とうとう辞めてしまった)
娘の名前は、上の方が絹、下の方が橙といった。昔は純粋に二人で仲良く遊んでいたのに、最近は会話もせず、しても相手を傷つけることが目的だった。とにかく彼女らには余裕がないのである。絹は蓮見家が没落してから憂鬱に、橙は荒涼になっていった。
これは没落貴族共有の欠点で、彼女らはもはや一般の人と変わらない生活をしているのに、誇りだけは貴族の頃のまま、心に強く纏わりついている。燃え尽きた過去の栄光、それがたとえ無価値な灰燼であっても、気づかないふりでもして抱えなければならなかった。飢えていても高尚な気取りをしなければならなかった。それはもはや仕方のない性、あるいは呪いだった。
橙はしきりに絹を疑っていた。絹はあまり感情を表に出さず、何を考えているか分からない不思議な人だった。そんな彼女を橙は信じられなかった。橙は絹がいつか、この家に残された数少ない最後の財産を奪って逃げるのではないかと懐疑していた。
それには理由があった。二人は金を騙された経験がある。父と母が死に、残された二人の未熟な娘を狙った遠い親戚の男の犯行だった。それは橙にとって、没落の原因のひとつなったということもあるが、深い心の傷となり、どれだけ時間が経っても経っても癒えることはなかった。しかし、これは二人が騙されたのだ。絹も橙と同じく被害者なのである。二人は同じ悲劇を共有しているはずなのに、絹があまりにも平然と過ごしているものだから、橙はそれが自身だけのものだと思い込んでいた。
そんな生活が数年続いた。橙は限界だった。自身の姉を、ましてや幼い頃心から慕っていた姉を、疑ってはいけないと制御しても疑ってしまう自身の心に。もしかしたら、絹も限界だったのかもしれない。橙には絹のことが何も分からない。
とうとう、無自覚にも橙は声を荒げて絹に聞いた。
「姉さん、私、あなたが信じられないの。」橙は思っていたよりも大きな声が出た。
「急にどうしたの。」驚きもせずに言葉を返す絹が、橙は悔しかった。自身だけが真剣なんだと思った。
「あなたが昔と変わって冷たくなってから、私は……。」橙は思うように言葉が出てこなかった。
「あら、あなたも昔と変わって荒んでいるわ。」静かに絹は言う。叱るような、諭すような口調だった。
「人を疑うあまり、私たちが互いまでも疑うのはやめましょう。血を分けた姉妹も信じられなくてどうするのよ。」それらしいことを表情ひとつ変えずに絹は言う。
「……正直に言うよ、姉さん。私はまだあなたが信じられない。」橙は慎重に言葉を選んで言った。
「まあ。」まあ? まあだと? 橙は心に何か火がつくのを感じた。
「私はあなたが何も分からないんだ、姉さん。何を考えているんだ? 私をバカにしてんの? 昔はもっと分かり合えていたはず。昔から私たちは変わってしまったの? 関係だけじゃない、身分だって、変わってしまった! 私たちは貴族から没落してしまったけど、でも、」橙はもはや自身がなにを言いたいのかも分からずに感情のまま喋っていた。気づけば机に手をついて、立ち上がっていた。
絹は今まで黙って聞いていたが、急に橙の言葉に割り込んで言った。
「あなたを愛してるわ、橙。」
橙は唖然として全てが止まってしまった。
「昔から変わらない。」絹が続けて言う。
「あぁ、初めから気づいていればよかったんだわ。私は感情を表に出すのが苦手だから、言葉にしなきゃ伝わらないのに。」ぎこちなく笑いながら絹が言う。
昔から絹は橙に愛していると伝えていた。それは母から習った表現方法だった。母が死んでからすっかり消えてしまった習慣だった。
橙の疑いはもはやどこかへいってしまった。昔から慕っている姉が変わらず自身を愛していると自覚した。
「これからは腹を割って話すの。全部を疑ってかかるんじゃ、疲れてしまうわ。せめて私たちだけは、互いを信じ合いましょう。」絹が橙を宥めるように言う。
「悪くない。」橙は顔を膝に埋めてそう言った。不貞腐れた言葉だが、そこには確かに分かり合えた喜びが混ざっていた。
「私たちは貴族だ。」顔を少し上げて橙が言う。
「えぇ、もちろん。」
「着物も着れない貴族がいてもいい、よね。」橙が不安がって絹に聞く。橙は分からないことがあるといつも絹に聞いていた。
「貴族の本質は外見を見繕うことではありません。」絹が冷静に言う。前までは無機質にしか感じなかった言葉も、今では強がっているように感じて、確かに絹の言葉を受け取る橙に変化が訪れていた。
「……話せてよかった。」橙が絞り出すように呟く。
「えぇ。」絹も返事をする。そのさっぱりとした返事には確かに愛おしさが込められていた。少なくとも橙はそう感じた。
二人はこれからも進み、変わり、手を取り合うだろう。それしか他がない。そうして二人で生きていくだろう。貴族の誇りと呪いを抱えながら。
「本心を話せてよかったよ、本当に。疑うのは疲れる。」
「疑われるのも疲れるものね。話してくれてありがとう。」
「こういうのをなんて言うんだったかな、ハート、うーん……なんだっけ?」
「慣れない横文字を使って気取ろうとしないで。」
「ひどくない?」
蝶よ花よ、美しいものはなぜこうも短命なのか。
すぐに踏まれたり食べられたり、ただ生きていようとも寿命がまず短かったり。
美しいものは必ず短命だ。
あなたがそれの特殊な反例を作ってくれることは当然のことだった。
あぁ、あなたまでそれらと同じように、証明するようにその一例になってどうする?
静かにいなくならないでくれ。
蝶よ花よ、あなたよ。
どれだって、僕の問いに答えてくれないところも同じだな。
「このキスは、あんたへの悪戯で 哀れみで
自分への処罰で 誓いで」
愛情である
時計を見ていつも後悔しているから、時計が嫌いだ
そんな人。