『空が泣く』
あ、と思ったときにはもう遅くて、アスファルトの地面が少しずつ色を変えていく。駅に着くまでは大丈夫かと、と思いつつ肩にかけていたバッグに手を入れたところで、今度は「あ」と声に出して呟いた。
「折りたたみ傘……玄関に置きっぱなしだ」
上を見上げると、先ほどまで太陽が顔を出していた空はいつのまにか分厚い雲に覆われていて、雨はしばらく止みそうにない。手にしているスマホに『この後2時間は雨』と通知バナーが表示されたことが、その証拠でもある。
とはいえため息ばかりついていても仕方がないので、ひとまず屋根のあるところで雨をしのごうと辺りを見渡すと、数メートル先の小さな本屋――で、本を立ち読みしている『彼』が目に入った。その瞬間、心臓がどくんと跳ねる。
彼って本を読むようなタイプだっけ、とか、そもそも部活があったはずなんだけど、とかそんなことはこの際どうだっていい。気付けば足は、彼のいる本屋に向かっていた。
木製のドアを開けると、頭の上でからんころんと音がして、レジに立つ店員と目が合う。彼女に軽く会釈をしてから、なるべく音を立てないように彼がいた辺りに近付いていった。なぜそうしたのかは自分でも分からないけれど。
数歩歩いたところで、本棚の向こうにいる彼を認識した。店の外から見たときには本を読んでいたのだが、今は手にしているものが本からスマートフォンに変わっている。誰かと連絡を取っているのか、指先はキーボードで文字を打っているような動きだ。相変わらず細長くて綺麗な指……と思ったところで、はっとした。これって一歩間違えればストーカー行為なのでは、と。しかし声をかけるのも億劫だ。なぜここにいるのかと聞かれたら上手く答えられる自信がない。まさか、「君がいたから」なんて言えるはずもないので。
数十秒迷って、やっぱりこんなことやめようと本棚に背を向けたとき。
「糸井さん?」
思わず勢いよく振り返る。そうして目が合った彼は、やっぱりそうだ、と微笑んでいた。
「カバンにつけてるそれで、糸井さんだって分かった」
彼が指さしたのは、高校生のときに友達とお揃いで買ったイルカのキーホルダー。こんなのに気付いてたんだ、と、再び心臓が跳ねる。
「部活終わり?」
「うん。日野くん、休んだでしょ」
会えると思ったのに、まで言えない自分を情けなく思う一方、急にそんなこと言ったら引かれるか、と正論を言い聞かせながら彼の方を見ると、どうしてか視線を泳がせていた。
「日野くん?」
「あ、ごめん。大会も終わったし、モチベないなーと思ってさ」
そう言って、彼は右の耳たぶを触る。
あ、この人嘘ついてるんだって分かってしまうのは、やはりストーカーなのだろうか。
彼は優しさゆえによく嘘をつく。そのときの癖が、これだ。
「そっか」
けれど指摘はしない。理由は、彼に嘘をつかせる心当たりがあるから。
しばらく二人の間に沈黙が続いた。まるで雨降りの日のような重たい空気が流れて、これはまずいとこちらから口を開く。
「探してる本があるから、そろそろ……」
「そうだよね、呼び止めちゃってごめん」
「いいのいいの。明後日は部活、来てね」
「うん。明後日は行けるよ」
最後の一言を言えた自分に心で拍手しながらまたねと、今度こそ本棚に背を向けて歩き出す。本当は探している本なんてないけど、このまま帰るわけにも行かなくなってしまったので、適当に店内をぶらぶらすることにした。
それから数分もしないうちに入口のドアが鳴る。反射的に振り返ると、入ってきたのは同年代くらいの女の子で、数分前の私と同じルートで彼のいる本棚へ向かっていく。いけないと思いつつ彼女を目で追っていると、なんの躊躇いもなく彼に話しかけた。ここからでははっきりと聞き取れないが、彼の様子からして知り合いなのだろう。
「――そしたら、急に雨が降ってきて」
「ね。雨降るって知ってたら車で来たんだけど」
「でも、雨の日のお散歩も楽しそうだね」
「たしかに。傘持ってる?」
「……持ってる」
そんな会話をしながら、彼らは店を出ていった。当然、彼が私の方を振り返ることもなく。
ガラス越しに、二人が歩いていくのが見えた。
彼が差す傘に二人並んで入っていて、肩が触れるほどの距離で笑いあっている。
ああそうか、全部勘違いだったんだ、と思うと、さあっと血の気が引いていくのが自分でも分かった。
彼が部活を休んだのは、私の告白を断ったから気まずいのだと思った。だけど彼は優しいから、モチベーションがないなんて嘘をついてくれたのだと。
だけど実際は、彼には既に恋人がいて、今日は大学終わりにデートの約束でもしていたのだろう。待ち合わせ場所はこの小さな本屋。その瞬間に、居合わせてしまったのだ。
何だかいたたまれない気持ちになって、本屋を飛び出す。帰りは店員に会釈する余裕なんてなかった。
傘は持っていない。先ほどよりも強まる雨をしのぐ術などなく、ただ髪をつたって地面に落ちる雨粒を鬱陶しいと思う。
例の彼女は一つの傘の下、彼と肩を並べて笑っていた。
私とは何もかも違うその事実に、もはや涙すら出てこない。その代わり、分厚い雲に覆われた暗い空が音を立てて泣いている。