思い出と云ったら、写真に保存する。僕は記憶力に乏しいので、頭に入れておくことができない。それがたくさんあるなら尚更。
でもね、だからといってね、写真をたくさん撮るっていうわけじゃあないんだ。何かこのスマホに保存されている写真といえば島根・鳥取旅行の物くらい。あぁ、そういえば、小学生の時までやっていた水泳とバスケの写真もあった。あとはなんの為に撮ったのか分からない、書類の写真達。勿論、それが思い出である筈がない。だとしたら、僕の思い出は旅行と水泳とバスケだけ?そんなことない。記憶力に乏しいとは言ったけれど、大切な思い出は覚えている。
写真に撮ることができなかったたくさんの思い出は形として残っていなくても、ちゃんと記憶の片隅に座っている。そんな思い出をこれからも増やしていきたい。
僕は冬という季節があまり好きではない。どちらかというと夏の方が好き。冬って、寒いし(それを云うなら夏は暑いけど)。
冬というと思い浮かぶのはクリスマス、年越し、正月。ただ、あまり印象に残らない(あくまでも個人的な感想です)。夏は夏休みがある(冬も冬休みがあるけど)。まぁ、夏も何かイベントがあるかというと思い浮かばないが。ただ、夏には冬が恋しくなる(冬は夏が恋しい)。暑い時、寒いのが好きになる。
夏にはできないことを冬にしたい。スキー、年越し蕎麦、雪だるま、、、冬になったらイベントも楽しみたい。
(今日はかなり語彙力低めでお送りしました)
貴方との見かけの距離は変わっていないと思う。端から見れば仲良しの、いつもと変わらない二人。たとえそれが見かけだけのものだったとしても。
シシュンキって云うの?結局、どれほど硬い絆で結ばれていようとも、他人であることに変わりはない。性格の違い、感性の違い、才能の違いに一喜一憂して、そうしていたら、いつの間にかはなればなれ。そう、一瞬。あんなに長い時間を掛けて築き上げてきたものが一瞬で崩れ落ちた。崩れ落ちた絆は邪魔にしかならない。原型を留めない絆の壁が僕達の間に出来上がった。まただ。はなればなれ。
他人である以上、貴方が何を想い、何を考えているのか僕には分からない。隔たりができた今はもっと分からない。でもさ、分からないから関われない?分からないから、はなればなれ?本当にそれで良いのかな。
僕は猫派だ。ただ、猫が大好きというほどでもない。犬か猫かで訊かれれば猫というだけである。子犬か子猫かで訊かれても同様である。
まぁでも猫が可愛いのは間違いない。子猫ならば尚更だ。しかし、なぜ僕は猫派なのだろうか。考えたことがないだろうか。なぜ自分は猫派or犬派なのかと。そこには必ず何か自分の体験が関係している筈である。例えば親が猫を飼っていたから猫派、犬の博物館に行ったから犬派、という具合だ。僕は幼い頃、野良の子猫に近所の子供達と一緒に餌やりをしていた。多分、僕の猫派はそれに由来している。
今考えるとあれはいけないことだった。野良猫に餌をやっては駄目なのだ。でも、あの体験が自分を猫派にしていたと思うと感慨深い。
秋風とは、基本的に秋に吹く風という意味。ただ、秋風が吹く、秋風が立つという形で男女の間の愛情が冷えてくるという意味にもなるらしい。
「秋(あき)」と「飽き(あき)」でかけているという。要するに親父ギャグ?へぇ、こういうのでもユーモアというものがあるのだなあと感心している。それを云うなら「秋」とつくものなら、何でもイケる気がする。秋空、秋雨、秋晴れ、、、何か違うんだよなあ。何が違うのだろうか。……秋風はやっぱり独特の雰囲気がある。物悲しいような、懐かしいような。それが「飽きる」という哀しいニュアンスに通じるのではと思う。
秋風が吹いてきました。恋人の皆さん、大丈夫ですか。あともう少しでクリスマス。そこまで何とか耐えましょう。秋風が吹いても、負けないでください。