彼の瞳は凪いでいた。
仕事終わりに熱心に食事に誘ってくる部下を前にして、彼はとても安らかな瞳をしていた。
(ああ、これは興味ないんだわ)
証拠に、のらりくらりと誘いを断っている。
諦めた部下は悔しげな顔で、彼の斜め向かいに立つ私の横を通り過ぎていった。
私は、いつも通り用意していたポットを彼に渡した。
彼はもう普通の表情で、ありがとう、とポットを受け取っている。
彼はこれから真っ直ぐ家に帰って、日課の天体観測だ。部下と食事に行っている暇などないだろう。
私も帰り支度を始めようと踵を返しかけ、呼び止められた。
「帰りがけに食事でもどう?」
さっき彼自身で断った食事の誘いをされた事に、とても驚き、思わず一言。
「さっきと言ってることが違うじゃない」
「いいじゃない。気が変わったんだ。
食事の後でも天体観測は出来るし、何より君と食事したいな」
そう小首を傾げて聞いてくる彼の瞳は、とても色が濃くなっていた。もうどこも凪いではいない。
私は、どんどんと高鳴る鼓動に煩さを感じながら、熱くなってゆく頬を恥ずかしく思いながらも、こういう所が憎たらしい、とも感じてしまう。
「食事した場所で、さっきの子と鉢合わせしても知らないわよ?」
少しの悔しさも混ぜてそう答えると、じゃあ惣菜を買って僕の家で食事しよう、と彼は譲らない。
「僕は気にしないけど、君が気にするのならそれでもいい。
一週間前みたいに、一緒に星を見ようよ」
一週間前みたいに、が強調された婚約者の一言。
私は、たまらない嬉しさ半分、自分の研究で中々時間の取れない申し訳なさ半分。今日はダメ、と口元に指でバツ印を作って見せる。
「その代わり、明日明後日、食事でも天体観測でも、何にでも、一緒に付き合うわ!」
彼は一瞬とても渋い顔をしたけど、すぐに眉間から力を抜いて、二日間とは奮発するね! とにっこり笑ってくれた。
そのことに、私は大幅に安堵する。
彼は楽しげに帰り支度を始めた。
「折角二日あるのだし、明後日は休みだし明日の帰りがけに温泉に行ってもいいなあ」
「いいわね。温泉行ってのんびりしましょ?」
そんなことを言いながら私も帰り支度に取り掛かった。
本当は、彼の安らかだった瞳が、普通の目になり私への興味で溢れた瞬間、たまらなく嬉しかった。
本当は、今日食事にだって行きたいし星だって一緒に見たかった。
けれど検体を一晩なんの準備もなしに放っておけるほど、私は豪胆じゃない。
(明日までに
二日間放っておけるだけの準備を整えなくちゃ)
私は、固く決意して彼と別れると家路を急ぐ。
死ぬまでずっと隣で一緒に居たいんじゃないの。
死んでも、ずっと隣で一緒に居たいの。
もっと知りたい。知識欲。探究心。
これが恋愛と結びつくととても厄介だ。
僕と離れている間、君が今何をしているか。危うく監視カメラや盗聴器を仕掛けたくなる。
発信機も仕掛けたい。
勿論、倫理と常識と信頼に則ってそんなことはしないけれど。
ああ、でも宣言して仕掛けるのなら許されたり、しないかな。
僕は君の婚約者で、君のことが大好きでたまらなくて、君の生活の、全てがもっと知りたいんだ。
東日本大震災から12年。
世間的には、世界大流行の病原菌もそろ鳴りを潜めてきて平穏な日常が戻りつつある今日この頃。
春めいてきた陽気に弛んでいた我が家に落とされた一滴の墨汁。
家人の癌。
平穏な日常に見せかけた、爆弾を抱えた日々が始まる。
その人なりの愛と平和の礎に、爆撃機を駆動させる人がいるらしい。
その人なりの愛と平和の礎に、他の国の領地を侵す人がいるらしい。
そんな人の愛と平和は、こっちから願い下げだ。