「どこにも書けないことは、どこにも書けないことなのです。
どこかに書いてしまえば、それは書けることになってしまうのですから」
そう言って澄まし顔をした女性は奇麗だった。
僕は、こんな奇麗な人にも、どこにも書けないことがあるんだな、と思った。
デジタルが跋扈するこの時代、時計の針はアナログだ。
でも家に一台はあるんじゃないだろうか。針のある時計。
秒針が緩々時を刻むそれは、電池かネジ切れを起こさない限りは止まることなく今を未来に変えてゆく。1から12までの円盤をぐるぐる回って、過去と今と未来を教えてくれる。
もし、この世から針のある時計が無くなったら、ちょっと寂しい。
長針、短針、秒針。
中でも私は秒針が好きだ。
チックタック、チックタックと進む針にも、ぐるーっと進む針にも、つい見つめてしまう魔力がある。
仕事が、辛くてつらくて、誰も味方がいない環境がともかく悲しくて、悲しみさえ解らないほどつらくて、帰り道毎日泣いて帰ったあの頃。
ある日耐えられなくなって職場を飛び出して帰って泣くだけ泣いた、あの日。
結局その仕事は辞めたけれど。
働くことがつらくて、でも働かないと生活が立ち行かないと追い詰められて、支援員さんの前で泣いてしまった、あの時。
あれほどまでの溢れる気持ち、溢れ出た感情の渦は、それきりパッタリ感じなくなってしまった。
今は。
平穏な毎日を、砂を噛みながら消化していくだけ。
Kissは非日常だ。
恋人と交わすそれは蕩けるほどに甘い。
なんて、言うけれど。
あたしにはよくわからない。
あたしに分かるのは、飼い猫のみーちゃんのお耳にKissすると幸せになれるということ。
みーちゃんのお耳は迷惑そうに、ぴくん、とするけれど、それでも腕の中からは逃げないから、あたしはまたKissをする。
そしてみーちゃんの頭に鼻先を押し付けるのだ。
お日様の匂いがして、ああ、幸せ。
休みを重ねて、二人揃って少し時間をかけた街の宝石展に行った。私達にとってはとても貴重なデートと言うやつで、私は、職場で会う以上にお洒落をしてこの日に臨んでいた。
それは彼も同じだったようで、何時もよりパリッと決めた服装にこちらも嬉しくなる。
宝石展は素晴らしいものだった。
二人してあれこれ静かに話しながら、解説や宝石の来歴に目を落としたりして、随分と長く会場に居座ってしまった。共に、新たな発見なんかもあって楽しかった。
けれど、私は。
どの宝石も綺麗だったけれど、磨き上げられた宝石より、売店で売っていた小さな原石のほうが気になった。
だからお土産に一つ、家へ連れて帰ろうと黄色に輝く原石を手に取ったら、彼にその手を包み込まれた。
「買うならお代は持たせて」
楽しげな彼の様子に、私は胸の高鳴りを抑えられず、お言葉に、甘えさせてもらった。
ただ私ばかり奢ってもらうのは申し訳なかったので、貴方も何か買わないの? と聞いてみる。
「僕も、そうだな。この青い石を買おうかな」
「じゃあそれは私が買うわ。買いあいっこしましょう?」
そう言ってにっこり笑ってみせると、それも楽しそうだ、と彼も破顔。
展示会のエントランスホールで、買ってもらった黄色い原石を袋から取り出して暮れかけの陽射しにかざしてみた。
この石は、数万年前から地中に眠っていたこの星の欠片だと思うと感慨深かった。
と、かざした石に、こつん、と彼が青色の原石を並べてきた。
「この石は、多少の劣化はあるかもしれないけれど、1000年先も変わらないんだろうね」
その、未来を見通したような茫洋とした彼の声と瞳に、私は、なら、と荒唐無稽なことを言ってみた。
「1000年先も本当にこのままか、見届けるってのはどうかしら?」
そんなことを言ったら、彼は一瞬呆気にとられたあと、君がそんな冗談を言うなんて、と心底可笑しそうに声を上げて笑った。
「いいよ。いいよ。
2つ並べて暗所で保管しておこう!
1000年後、本当にこのままなのか――――血筋が絶えなかったら確認できるかもしれないね」
「もう! 生まれ変わりとか、あるかもしれないじゃない」
「生まれ変わりじゃあ記憶があるかも判らないじゃないか」
「でも、私は貴方を見つけ出すわ!」
「それは僕だっておなじさ! 必ず見つけ出して、また同じ関係になってみせるよ」
そんなふうにじゃれあいながら、宝石展を後にした。
心臓の音が煩い。頬も首周りも熱くて仕方がなかった。
生まれ変わっても見つける。見つけ出してくれる。その言葉がどれだけの爆弾か。
隣の彼の耳も赤かった。