学生の頃、街へ行くには電車を使っていた。
友達と遊ぶ為に出掛けるその場所は、街一番の駅。
駅前にはカラオケとかハンバーガー屋さんとかコーヒーショップにオシャレな洋服やバッグや靴が揃う駅ビルがあって、なんというか、キラキラして楽しい場所だった。
今、街に行くのに使うのは車だ。
街一番の駅も駅前もほとんど通勤で通り過ぎるだけになった。服もバッグも靴も飲食店も郊外で済ませている。駐車場代がかからないから。
郊外にもオシャレな場所は多いし、車移動は自由だし世界が広がったとも思う。
でも、時々、街一番の駅に電車で行きたくなることがあるのだ。
通り過ぎているだけの駅前を、一人そぞろ歩いてみたい。あの当時とはどこが違っているのかな、とか、まだキラキラした場所に感じるのかな、とか。
思うだけだけど。
一方的な優しさは都合のいい人で片付けられる。
何かをしてあげたら、相手にも何かを要求していい。それで拒まれたらその人には以降何もしない。
してもらったら、してあげる。それが成り立つのが健全な人間関係だ。
こんな考えの私は多分優しくない。
優しさや思いやりは難しすぎて、私には扱い切れない。
星空柄の傘を買った。晴雨兼用。ミッドナイトの下地に白い星が散りばめられていて、結構お気に入りだ。
雨の日が余計暗くなりそう?
そうかもしれない。
でも、真昼に夜を連れて歩けるのってステキ。
安心と不安は表裏一体だ。
例えば災害。南海トラフ巨大地震なんてのがその際たるものだろう。
いつか来ると言われているソレは、今はまだ来ないでいる。安心だ。
けれどもいつかは来る。不安だ。
不安だから人は対策をねる。不安に備えて行動できる。
結果、安心が生まれる。
安心は、不安からのご褒美なのかもしれない。
夕日を背に、雄大な空に突き刺さるようにして黒く切り取られている時計塔の姿は美しい。
私は、この景色を写真に収めるべく、街の小高い丘にやってきた。
老体には少々堪える登り坂を登った先の、見晴らしの良い景色に疲れは吹っ飛んでしまう。
心地よい風に吹かれながら、丘の中央まで来ると、カメラの焦点を時計塔に絞ってシャッターを切った。
逆光を受けて、まるで巨大な時計の針のように見える時計塔が、また一つ、私の手で切り取られた。
妻には、真っ黒な時計塔ばかり撮って何が楽しいの、と呆れられてしまったのだけれど、この街一番の景色は何度撮っても良いものだと、私は思っている。
日によって時計塔の光の加減や雲の位置などがどれも違って見え、全て美しい。
これが私の趣味であり、晴れた日の日課だ。