お題︰寒さが身に染みて
夜、寝る前、ふと不安にかられたとき、ふと逃げたくなったとき、どうしようもなく人生をリタイアしたくなったとき。
激しい動悸に見舞われて、目の前にある大量の薬を飲み干したくなる。
しかしいざ飲もうとすると「失敗したらどうなるだろう」「後遺症になってもっと生きづらくなったらどうしよう」「部屋の片付けくらいしとけばよかったかな」なんて、至極真っ当なことを思い浮かべるのだ。
そうやってぽやぽやしているうちに頭にまで血が上って座っていられないほどドクドク鳴り響き、更には「私は一刻も早く死ななければならない!」などと意味不明なことが頭の中を満たしていく。
決して死にたいわけではなく、なんなら生きたいと思っているが、この消えたいという衝動も嘘偽りのないもので、しかし消えたいという衝動は脳みそが勝手に出しているだけであり自分の意志ではないし、最早自分の感情をコントロールできなくなる。
ここまで来たら死にたいも死にたくないもどうでもよくなってこの状況から一刻も早く脱したいという気持ちが強くなる。悩み葛藤し苦しい状況から逃げ出したい一心だ。
逃げたい、逃げたい、でもどうやって
上着も着ず、靴下も履かず、服一枚で外に出ろ。極寒の中ただひたすら突っ立っていれば良い。寒さで全身が震えて、指と足先がどんどん凍って、耳と鼻が千切れるくらい冷たくなっていくのをじっと感じればいい。
寒い、寒い、寒い!
5分外に出ておけばいい。そうしたら寒い以外何も考えられなくなる。さっきまでの不安だとか逃げたいだとか死にたいだとか、考える余裕なんてない。ただひたすら寒くて体を温めようと体が必死に震えるばかり。
寒さというのはいい薬だ、しかも良く効く。
服一枚で外に出て突っ立っていろ。
「頭の中がグルグルモヤモヤでいっぱいになったときどうしたらいいですか」
に対する今のところ一番良い回答だ。
寒さが身に染みて布団の暖かさにひどく安堵し、つかの間の安全地帯で眠りにつける。例え眠れなくとも安心感に包まれて、少しだけ幸せになれるというものだ。
お題︰ゆずの香り
ふやけたゆずを足でぐちゅぐちゅ踏みつけるのが楽しいのですが、何と言いましょうか、支配欲が満たされる感覚がするのです。暴力性を果物にぶつけ解消する、非常に良いですよ。果物は悲鳴を上げない静かな生き物ですからうるさくありませんし。しかし問題は足にゆずの香りが移ることですね。わたくしがゆずを踏みつけていたことを、まるでゆずが責めているようではありませんか。これでも、食べ物を粗末に扱ってはならない、という教えが脳内にこびりついていますからね。少々後ろめたい気持ちを抱えたり……していないかもしれません。ゆずの香りが足についたら良い香りになるだけですね。ありがとうゆず、踏みつけられているというのに、わざわざわたくしの足を良い香りにしてくださって。
お題︰冬は一緒に
誰かと一緒に何かをするというのはあまり得意ではない。他人に気を遣わないといけないし、調子を合わせないといけない。疲弊してしまうから一人のほうがいい。
でももし、気遣いもしなくてよくて調子も引きずられることがないなら、誰かと一杯乾杯がしたい。冷える空気に、澄んだ空に、朝霜にでも、今日という冬の一日に。
お題︰風邪
泣きたくなった。それは鼻を熱くする。
僕の言葉は垂れ流れる液体になった。
ゆらゆら、ゆらゆら、伸びて。
伝えたいことがあったけど、お粥に乗っけた梅干しみたいに酸っぱいから、口にしなかった。
風邪をひいた、僕の代わりに体が言った。
「もう疲れちゃった」。
ぴぴぴ、ぴぴぴ、熱い。
ベッドで思い出すのは、昔、の、冷たい手のひらで、額に手を乗せてみる。
何の変哲もない僕の手だった。泣いてしまいたい。
孤独みたい、喉が痛かった。
お題:雪を待つ
12/7 大雪
僕にはとても大切な人がいた。彼は明るく穏やかで、僕にとって陽だまりのような存在だった。金色の髪を揺らして楽しそうに歩く姿をいつまででも眺めていられたし、眺めているだけで僕はとても幸せな気持ちになれた。
陽だまりのようだと形容したが、彼は決して柔らかくはないし穏やかでもない。彼独特の感性と調子で生きている故、どこか掴みどころがない。どれだけ仲の良い人とでも常に一定の距離を保ち、一定の場所に留まらない人だ。今彼がどこにいて何をしているかなんて僕は知らないし知る術もない。
……大雪が降ったあの日、僕があんなことをしなければ彼はまだここにいたかもしれない。「一定の場所に留まらない」なんて、彼が僕から距離をとったからそう思っているだけだ。というより、そう思い込みたいだけなのだ。
彼は誰とでも一定の距離を保つ、それが少し嫌で……他の誰かと同列なのが嫌で踏み込んでしまった。あの日、肩を並べて談笑したのがあまりに心地よくて勢いのまま連絡先を尋ねてしまった。そして珍しくヘラりと笑った君がキラキラ輝いて見えて思わず手を握ってしまった。きっとそれがいけなかったのだ。彼は忽然と姿を消した。
1/30 寒梅
雪の中で突っ立って梅の花を眺めていた。雪の積もった梅の花があちこちで咲いている。小ぶりの花は今にも雪に埋もれてしまいそうで心許なく感じられるが、スカスカの今の僕の心には派手すぎず丁度良い。
ヒョウヒョウと吠える北風が耳、頬、手の甲にあかぎれを作り足先の感覚が無くなる頃、茶色い木、梅花の紅色、一面雪の三色だけの中、ふらりと明るい金髪が現れた。
「あれ……はは、ひどい夢だ」
僕はこれを完全に夢か幻か何かだと思っていたもので、自傷気味に呟いた途端君がくるりと振り返ったときは心臓が止まるかと思った。叫び出しそうになるのを必死に堪え飲み込みそっと息を吐く。すると彼も僕と同じように目を見張って真っ白な息を吐いた。彼はギュッと目を閉じ、ゆっくり開き、また緩慢なまばたきをして呆けた顔で眺めてくる。
(なぜこんな所に、やはり夢なのか、夢なのか、だって都合が良すぎる、夢に決まってる、そうだろう、夢なんだこれは)
何度見ても忽然と消えてしまった彼にしか見えず、夢だ夢だと言っておきながら僕は現実かもしれないと確信に近い期待をしていた。
「きみ」
僕が一歩雪を踏みしめた瞬間、彼はパッと顔を輝かせ、かと思えばふわりと綻ばせ、さくりさくりと雪を踏み分けながらこちらへ向かって来る。
「お前を、探してたんだ、ずっと……会いたかった」
心臓が跳ねる、跳ねる。銀世界に輝く金の髪が眩い。
2/6 霙るる
先程まで雪だったものが徐々に霙に変わってきた。肩口を本格的に濡らし始め、コートが下へ下へと重くなる。心なしか彼もしょんぼりとした様子だ。
「長靴の中がぐしょぐしょだ」
言いながら片足を上げてみせる。その仕草が愛らしくて思わず口元が緩んでしまった。
(今だけ、今だけ……)
分かっているのだ。この幸福な時間は長く続かないということを。彼が風邪を引いてしまってはならないから、僕はチクりと心を痛めながら言った。
「それじゃあ早く帰らなくてはね」
濡れた手で彼の手を取った。冷え切って震えた手と手。二人分の体温を分け合って暖かく熱を帯びていく。手に当たる霙が体温で完全に液体となり、指と指の間を伝ってぬるくなり、結ばれた二人の手の中に溜まる。
頭も体もぐしょぐしょに濡れて震えが止まらないのに、繋がった手が、心が暖かい。
「お前と手を繋いでいると寒くないな」
満面の笑みを向けて、鼻先を真っ赤に染めて、そう言う君が、僕は本当に。
(今だけ、噛み締めている)
僕は本当に、君と。
「溶け合っているみたいだ」
彼は僕の言葉を聞くと打って変わって物悲しげに微笑んだ。潤んだ瞳を隠すように目を細め、今にも雫が溢れそうになっている。
雨は雪となり混ざり合って霙となるならば、涙も霙になってしまえば良いのに。涙が霙になれば、こんなにも痛い霙になれば君だって気づいてくれるんじゃないのか。
繋いでいる。君を繋いでいる。こんなにもあたたかいのに、春は来るのだろうか。
(今だけ、今だけだ)
柔らかなものも凍ってしまう冬に僕達も凍りついてしまえば良いのに。
今だけ、繋がっている。
2/10 粉雪
同じ人と長く関われば関わるほど考え方が凝り固まってしまうらしい。居心地が良すぎて、安心してしまって、冒険しなくなる、少なくとも俺はそうだ、と彼は言った。フラフラと彷徨っているのが心地良いと、同じ人とずっと一緒にいるのが怖いと。
どう怖いのか、何が怖いのかを尋ねた。
「『とても素敵な人と出会えて幸せなはずなのに、どうしてもその人と一緒に死にたくなってしまう、その願望が抑えきれない恐怖』に近いだろうか」
そう言って困ったように笑った。
「仮にこの感情を心中と名付けるとしよう。心中を望んではいるが実現させたいとは思っていない。俺はまだ、生きて、楽しいものを見つけて、穏やかに過ごしたい。移り変わる四季をまだ堪能していたいからな」
徐々に異様な空気を纏ってきているのを感じてはいた。だからこそ、一緒にいられるのもここまでで、潮時なのだろうと僕も諦めがついていた。しかし僕は君が一人「もう満足したから」と死んでしまうのではないかと、そんな不安に煽られている。
彼は話を逸らすように窓の外を見た。
「雪だ。見に行こう」
静かにはしゃぎ、童心を忘れない輝きを持っている君。やはり君はキラキラ綺麗だったから手を繋ぎたくなった。
この雪の先を行けば君が居なくなるような気がした。雪に紛れて、或いは雪に埋もれて、或いは吹雪に隠れて。お別れの挨拶も無しに僕の前から居なくなる。そんな気配がした。
曖昧に終わらせようとしている。それもありだと思った。雪が手のひらで溶けるように、海の上に染みてゆくように。曖昧にぼんやり終わらせようと、案外ぱっと消えるようなひとときなのかもしれない。道を別れた後じんわりと染みる寂しさが心に巣食うだろうと思っていたが、それも案外無いのかもしれない。雪のように……いいや、もっと軽く小さな、粉雪のようにパッと消えるのだ。彼と同じように。
11/30 冬隣
雪を待っている。
僕にはとても大切な人がいた。明るく穏やかで陽だまりのような金の髪を持つ彼。雪のように消えた彼。彼は雪だ。だから雪を待っているのだ。