「今一番欲しいもの、ですか……」突然の打診にたじろぐ。肩に下げた銃剣の重さを急に意識した。
今しがた銃剣道の試合が終わったばかりだが、僕は特に入賞も、ましてや優勝なんてしていない。
表彰式が終わり、さあ帰ろうと立ち上がりかけたところで声をかけられた。
「いや、君の試合は良かったよ。他の選手はあくまで『道』として型を演じているのがわかったが、君は違う。
君、相手を殺す気でいただろう。」
確かに僕は型通りというものは不得手である。先輩にも師範にもよく指摘される。型をなぞってはいるが、所作の細かなところが甘いとか、無駄な動きがあるだとか。
それが殺す気だなんて。
「いえ、自分は型の所作がどうも上手く演じられないのです。試合で勝ち上がるには不十分で、それを補うには気迫しかないもので」と説明する。
「そういうことではないよ。例えば突きなんて型どおりにするとわかるだろ、絶対に相手を傷つけることはない。でも君の突き、あれ止められたからいいものの、そのままだと試合相手の手首が飛んでたろ。」
ギクリとした。この相手には誤魔化しきれないのか。
「だからさ、私の所属においでよ。今度新しい部署を作るんだよ。そこなら君の一番欲しいものが手に入るかと思ってさ。」
ああ、なんでもお見通しというわけか。それならば取り繕う必要もない。
「わかりました。そうまで仰るならば異存はありません。叶えて頂きますよ、僕の一番の望みを。」
もうどのくらい歩いただろうか。首輪はあちこちが破け、体は埃まみれ。足だってすっかり硬くひび割れていた。
鳩や鼠の味も覚え、虫だって食べられることも知った。猫も、そうだ、どこに牙を立てれば殺せることもわかっている。口の中に広がる血の匂いと温かさに、気づけば夢中になって牙を立てていた。
部屋の中で暮らしていたあの日々は夢だったのではないか。
やっと入った群れの中で序列をつけられ、上のものにはどのように振る舞うべきなのかも教わった。喧嘩で序列を上げることもできたし、リーダーに舐めてもらうと嬉しかった。
この嬉しさは、どこかでも感じていたと思うけれども。
狩の獲物を探して森の中を進む。周りのいくつもの気配、鳥の声、繁みの匂い、枯れ葉の下の擦れる音、そういったものに注意深く進む。
ふと、嗅ぎ覚えのある匂いに気付く。懐かしく、嬉しく、とても大事な匂い。匂いの強い方に引きつられるように進んだ。段々と歩きが速くなる。匂いに近付くにつれ、確信が強くなった。
とても大事な、あのコ。
私を撫でる手、声、動きを昨日のようにありありと思い出す。
とうとう見つけた匂いの主に、思わず飛びかかっていた。
朋子は最初こそびっくりしていたが、私の汚れきった体に戸惑いを見せていたが、伸し掛る体型、首輪の名残を見て、驚きの声を上げた。
「ノア、ノア!どこに行っていたの、探していたんだよ」
ああ、ああ、この声を聞きたかった。私の名前を呼ぶ、懐かしいこの声。
私の尻尾は千切れんばかりに振り回されていた。
杜を覆う木々の中、ひときわ大きな楠があった。太い幹に数え切れないほどの枝を伸ばし、葉をびっしりとつけていた。下から見上げると、天を覆う傘のようであっただろう。
一つの枝が、その傘の外まで伸びていた。枝先には、いつの頃からか一羽の鴉が止まっていた。黒黒とした羽根はしかし見る角度を変えると青とも緑とも色を変えた。太くて頑丈な嘴をもって、人間は「ハシブトガラス」と名を与えていた。
鴉は遠く、空の彼方を見つめていた。その視線の先には立ち込める雲が沸き立っていた。雲の中には稲光。風の向きから、程なくこちら側にも流れてくるだろう。
鴉は思案していた。もちろん人間のように明確に言語で考えているわけでもない。だが鴉にも先を予想する能力は少しはある。
雲の下では雷雨だろう。こちらに来るということは、そのうちここも雷雨になる。そうなると、飛ぶことも容易ではなくなる。
どうしよう、まだ腹が満ちていない。だが今はまだ飛び立てない。
鴉の右脚にはテグスが絡まっていた。先程から解こうと苦心していたのだが、如何せん嘴だけでは埒が明かない。やがて疲れて遠くを見ると、近い将来の苦悩までもが見えてしまった。
鴉は、カァ、とよく届く声を上げた。誰かが気づけば何とかなるかもしれない。カァ、カァ、と続ける。少し待っても返答がなかった。この広い杜には自分しかいないのではないか、という思いがもたげたとき、
「どうしたのですか」と木の下から声が聞こえた。
無論、鴉に人間の言葉は理解できない。だが理解できたということは、誰の声か。
鴉は声のする方に降りることにした。
ああ、この杜の社の眷属であったか。
モコモコと首周りに鬣を生やした阿行の狛犬に、テグスが絡まった右脚を差し出した。
「ああ、これは大変ですね。足の先が取れかかっている。早く外さないと」と吽行の狛犬も覗き込んできた。
二体の狛犬が試みるも、如何せん狛犬の足はそれほど器用ではない。
しばらく格闘していると、社の扉が開いた。
実際には開いていないのだが、鴉には開いたように見えた。
中からは五光が差し、後光で姿や表情が判然としないものが出てきた。ように見えた。
二体の狛犬はいつの間にか下がり、鴉はそのものと相対することとなった。
光が伸び、鴉も届くようになると、右脚のテグスはもうなかった。自分の傍らに、自分だったものがテグスを付けたまま横たわっている。
鴉は神の眷属とされたようだった。
社に邪なものが来ると狛犬たちと協働して追い払い、何もなくては社の周りを漂って。そうして鴉は幾歳月を過ごすようになっていった。
月が蒼く照らす野原を千晶は一人歩いていた。そよぐ風に髪をなびかせ、素足をくすぐる草花もものともせず。
いま、ここにいるのは私だけ。どんな格好でも歩き方でも、咎める人は誰もいない。
ふ、と顔を空に向けると、月から離れた空に星が瞬いていた。
残してきた人たちを思い出す。みんな、どうしているだろう。随分遠くまで来たな。
少し感傷的になった千晶は、叫び声に我に返った。
見廻りの警官が恐怖の顔で硬直している。
ああ、気を抜きすぎた。
面倒なことになるな、と千晶は頭から伸びた触手を伸ばし、警官の脳にナノマシンを埋め込んだ。これで今の記憶は書き換わるだろう。
まだ気づかれるわけにはいかない。
気絶した警官が目を開けると、長い髪の少女の千晶が声をかけた。
「大丈夫ですか、こんなところで寝ていては風邪をひきます。さあ、町に帰りましょう」
ビルの谷間に靴が鳴る。そこかしこにあるダクトやポリバケツを避けながら、真鍋は足早に進んでいた。ただでさえ草臥れたスーツには外壁の埃がつき、髪には蜘蛛の巣が纏わりついていた。
息が上がる。
立ち止まって後ろを振り返ると、どうやら追っ手はないようだ。
荒い息の中、懐の煙草を取り出し一服する。
ふう、と空に上る煙を見てようやく一心地着く。
そういえば、あれもこんな暗い夜だった。
一人家を抜け出して村の外れの社で和真と待ち合わせた。二人で丘の向こうの沼に向かう。
「新月の夜には決してあの沼に近づいたらいけないよ。恐ろしい化け物が待ち構えているからね。」と村の子供達は言い聞かされていた。
「恐ろしい、だって。なんだよそれ。」和真はニヤニヤしながら真鍋に持ち掛けた。「なあ、一度見てみようよ。」
月も照らさぬ丘を越え、立ち塞がる藪を掻き分けて、目当ての沼へ向かって行った。昼ならばあんなに簡単に着けるのに、闇夜の道行きがこんなに遠いとは。
息も絶え絶えに沼に着くと、向こう岸がぼんやりと明るく照らされていた。
まさか、本当に化け物がいたのか、と身を隠しながら目を凝らすと、そこには数人の男がいた。身に付けた衣装は白く浮かび、よく見ると洋服ではないようだった。
知っている男たちなのか、違うのか。
呆然と眺めていると、「おい」後ろから男の声がした。
びくりと振り返ると髭面の男が「村のガキか。なんの用だ。ようがなければ帰れ」と凄んだ。
なにも言えず後退る真鍋の横から、和真が
「あんたら、旅してるんだろ、俺を連れて行ってくれ」と息巻いた。
信じられない顔の真鍋に向かい、「俺は帰らない。村でそう伝えてくれ」と告げ、和真は白装束の集団に入っていった。
置いて行かれた真鍋は村にもどったが、和真のことは伝えられなかった。村ではちょっとした騒動になったが、やがては行方不明ということで警察に届けられた。
ふと真鍋は人の気配に我に返った。囲まれている。
無意識に懐に手を入れる真鍋に向かい、一人の男が近付いてきた。
「よお、ずいぶん懐かしい顔じゃねえか。盗んだそれ、返せよ」
和真だ。雰囲気は随分変わったが、あのニヤついた顔は変わらない。