その言葉を聞いた時、
たくさんの人の顔が浮かぶのは
私がたくさんの人に導いてもらったから。。
親族だけじゃない。
私の体にメスを入れ、
機能獲得を共に目指してくれた人
私の心をそっと包んで
「大丈夫、急に居なくなるなんて絶対ない」
と、強い眼差しで安心させてくれた人。
「誰かの人生に伴走するのは
医療職だけじゃない」
と、諭してくれた人。
「やりたいことがはっきりしたら、
あとは走るだけ。私たちも一緒に走るよ」
と、共に光を探してくれた人。
書ききれないほどたくさんの人の
「言葉」で、私は救われてきた
あの人たちのようになりたい
と、思わせてくれた出会いは
人生の宝物だ。
もし、目の前が真っ暗で、
先が見えなくなったら、
何度でもいい、羅針盤のそばに戻ろう。
そしてまた、光を探そう。
羅針盤がそこにあってくれる限り、
私は立っていられる。
さぁ、追いかけよう、「私だけの光」を
「心の羅針盤」
「またね」
それを言い合える関係性はとても貴重だ。
お互いに、
また会いたいと思っているということだから
学生が毎日言い合う「またね」も
恋人と電話で言う「またね」も
離れた実家から家に戻る時の「またね」も
長い間寄り添って過ごしてきた人を
空に送るための「またね」も
空に行くのは生まれてきた順番と同じだ。
そうであれば、幸せだが、
そうなるとは限らない。
1回1回の「またね」は
知らないうちに、最後になる可能性もある。
「またね」とは、愛なのだ。
あなたのことを大切に思っていますよ、と
伝えるための言葉だ。
だから、どんな「またね」も笑顔で。
後悔のないように。
大切な人との「またね」が、
笑顔の思い出になるように、私たちは生きる
いつか、空で再会した時
「会えたね」と笑える人生だったら、
きっと、その人生は充実していたということで。
そう思えるように、
地上にいる私たちは、
笑顔の「またね」を繰り返す。
続いていく日々の中に、
大切な人の顔を思い浮かべて。
「またね」
漂うクラゲ、宙を舞うイルカ、
よちよち歩くペンギン
それらが好きだ。
つまり水族館が大好きなのだ。
薄暗い照明の中で、
気ままに泳いでいる彼らを見ると
私もその中に入れて欲しくなる。
彼らは見方によっては不自由を強いられ
水槽で飼育される「見世物」だ。
が、彼らは不自由なのだろうか。
温度や湿度が管理された水槽の中で
餌も必ず与えられる。
生まれた時から、水槽の中
という個体もいるだろう
毎日、たくさんの人間の「人生」を見ている。
家族連れも、
付き合い始めのカップルも、
もしかしたら、
プロポーズをしようと覚悟を決めた人も。
何年もそこにいると、
家族が増えたり、
親子連れだった子供たちが、成長して
子供だけで来るようになったり、
念願の「家族」になった2人の思い出の場所になったり
そんな場所で、今日も彼らは誰かの「心」を見ている
私は、そんな彼らの口やエラから排出される泡が、とても神聖なものに見える。
「泡になりたい」
今年も、この季節がやってきた。
ある年は海で、ある年は病室で、
またある年は縁側に座る祖父の隣で
この季節を迎えてきた。
楽しくてはしゃいだ年も
楽しんでいる友人たちを眺めていた寂しい年も
都会の喧騒から離れた祖父の隣で過ごした年も
どんな年も、線香花火と蚊取り線香だけは
変わらずそこにあった。
今年はついに一人暮らしの部屋で迎える夏。
自由で、でも少し孤独なこの季節が
私の記憶を呼び覚ます
ただいま、夏。