『耳を澄ますと』
コロナ禍の頃から、耳読というものを知り
スマホの読み上げ機能やAudible、
そしてVoicyアプリなどで
家事をしながら、
そして車の運転中に聴くようになった
読書の時間がなかなかとれない私にとって
それはとても便利な機能で
たくさんの本や情報に触れることのでき
充実したインプットの時間を増やすことになった
そのことで多くの知識と気づきを
耳から得られることができ、
自己成長のきっかけにつながった
だけどあまりにも多くの時間を
インプットに費やしていると
本来の自分を知らず知らず
置いてけぼりにしてしまうようになった
上質で大量の知識のストックを抱えているわりに、
行動は空回りして
焦りを感じるようになった
「静」の時間を持つため
瞑想をするようにした
からっぽのわたし
それを感じるひとときは
とても心地よい感覚だった
そして、この「書く習慣」アプリも
自分を取り戻す時間になった
毎日出る課題に対して
何を書くか頭と心のなかで
ぐるぐるさまよっているとき
音は消えた
自分の中の忘れていた
記憶や感情と向き合うために
わたしへと耳を澄ますようになった
そうしているとからっぽのわたしから
「わたし」が湧きだし
形になってあらわれてくるのだ
二人だけの秘密
「おかあちゃん」
物心ついたときには母のことをそう呼んでいた。
5つ年上の姉も同じように、
母のことを「おかあちゃん」
父のことを「おとうちゃん」と、呼んでいた
幼い頃はそれが当たり前だったけれど
小学校にあがり、だんだん学年があがってくると
同級生たちが「おとうさん」「おかあさん」と呼んでいたことで、
それが一般的な呼び方なのだと知った
「おかあちゃん」
母のことを人の前でこう呼ぶのが非常に恥ずかしくなっていた
なんだかとても幼稚で変わった感じに思えて仕方なかった
だけど他の子たちのように
「おかあさん」と急に呼びかけることは
もっと勇気のいることで、
どうしてもできなかった
なので他の人がいる前で親に声をかけるときは
「あのさ」と呼びかけたりするようになった
「おかあちゃん、おとうちゃん」
家族の前だけではそれまでどおり呼びかけた
そのことについて姉と話をしたことはないが、
同じ思いだったようで
気恥ずかしさを感じていたようだった
なんでもっと普通に「おとうさん、おかあさん」
と呼ばせるようにしてくれなかったのだろう
その思いは長年心の中でくすぶり続けていた
大人になったある時、
姉が結婚することになった
それまで気恥ずかしさを感じながらも、
姉は母のことを「おかあちゃん」と呼んでいたのに結婚が決まった頃から急に家庭内でも母のことを「おかあさん」
そして父のことを「おとうさん」と呼ぶようになった
わたしは姉の急な態度の変化に驚いたが、
両親も驚いたようでなんだかバツの悪そうな表情で呼びかけにこたえていた
姉が「おとうさん、おかあさん」と呼ぶたびに
よそよそしさが漂った
その嘘っぽいよそよそしさを感じてでも、
姉はこれから始まる新しいステージのために
自分と自分の生まれ育ったイメージをよりよく整えるために必死だったのだろう
今は父も母も他界して声に出して呼びかけることはなくなった
父と母への呼び方を無邪気に口に出すことができなかった、
それは私たち姉妹がともに感じてきた複雑で酸っぱい思い出である