近づいてくる、夏が。
ミーンミーンと、蝉の鳴き声が周りの音をかき消すほどうるさく聞こえる。はずなのに…
踏切の音と、一緒に近づいてくる電車の音が、頭に響く。
カーンカーン、ガタンゴトン、キーッ、ドンッ
あの時の、あの音が、嫌でも思い出される。
…ねぇ、■■ちゃん。
あの時、私の方を見て笑ったのはどうして？
私は夏の気配から、いや彼女の気配からは逃げられない。
ゆっくり、確実に彼女は近づいてくる。
そして、じっとりとした血のついた指を私の顔に触れ、こう言う。
（ねぇ、─好──よ）
肝心な言葉は、蝉の鳴き声で聞こえない。
だけど、この言葉はきっと私を縛る呪の呪文なんだろうな…

（■■■、お前は本に載っていることだけが真実だと、そ　　　
　う思うのか？）
　父はよく、僕にこう問いかけてきた。
　僕は決まって、（わからない）と答えた。
　父は冒険家だった。
　家族との関わりを捨ててまで、まだ見ぬ世界を目指し、　　　　　　　
　自分の道を突き進む、そんな人だった。
　母はそんな父のことをろくでもない人だ、と話してい　
　た。
　一般的に考えると、母の言うろくでもない人なのかもし　
　れない…
　でも、数年に一度帰ってくる父から聞く冒険の話が好き　
　だった僕は、いつからか父と同じように冒険家を目指す
　ようになっていた。
　本に載っている、ことが真実なのかそれを知るために僕
　は、まだ見ぬ世界へと足を向かわせる。
　（父さん、行ってきます。）
　父の遺影に向けてあいさつをする。
　そして
　ただいまを言えるよう神様にお祈りをするのだ。

最初で、最後の"声"
医者からこう告げられた、（健康な状態で産まれてくるのは難しいかもしれません…）。
頭の中が真っ白になって、それから幾つもの自責の念が押し寄せてきた。
旦那も両親も義両親も、誰も責めはしなかったものの私の心の中は梅雨の空のように、なかなか晴れなかった。
娘は、無事産まれた。…無事と言っていいものなのか。産まれてから1時間後、娘は息を引き取った。
娘のあげた産声が、私が聞いた最初で最後の"声"だった。
その声を聴いたとき、ずっと心の中の雲がなくなった気がした…
ありがとう、私のところに産まれてきてくれて
ごめんね、丈夫な身体で産んであげられなくって
これが、私が娘に送った最初で最後の''声''だった。

空はこんなにも青く、どんな者も受け入れてくれるほど壮大なのに。どうして、僕はそっちに行けないのだろう…
ただ、彼女の太陽のような笑顔をもう一度見たいだけなのに…

暗闇に染まった辺りを街灯が照らす、そんな時間に僕たちは海にいた。
（どこにもいかないでね）
彼女のどこか切なげな表情に、心臓がドくんとなるのを感じ、僕はこう言った。
（当たり前だろ）
そう、当たり前なのだ。
僕が彼女から離れることは絶対にない。例え、家族や周囲の人々が結婚に反対したとしても。
僕たちは、手を繋ぎながら海の底へと進んでいく…
月の光が海を照らし、まるで僕たちを祝福する結婚式のような輝きを放っていた。