もう5年ほど前になるだろうか。ある日思い立ち、勇気を出して映画館に一人で映画を見に行った。入場券を買い開演前のシアターに入ると、なるほど人気作品とだけあってなかなかの混雑具合である。一人での映画鑑賞など経験が少なく、不慣れであった私は人混みのなか指定された席にそそくさと座り込んだ。開演まであと5分か。思えば近年の忙しない世の中で、ただ何もせず黙って何かを待つなんて貴重で贅沢だよななどと不意に思いを巡らせる。ふと横に視線をやると、右隣に座っている女性はポップコーンの容器を抱え、今か今かと開演を待っていた。そういえばドリンクばかりに意識が行ってフードを買い損ねてしまった。変な緊張感からかドリンクも減りが早い。次回からは私もフードを準備しておこうと反省した、その時だった。右隣の女性がポップコーンを座席の下へ大量にぶちまけた。私も「うおっ」と思わず声に出ていたかもしれない。女性が自分で零したポップコーンを拾おうと試みるも前の座席との間隔が狭くうまくいかない様子。(ちなみに私は見ず知らずの人間と一緒にポップコーンを拾ってあげられるほど対人スキルに長けていない。)そして響き渡る開演のブザーと、落ちる照明。結局、女性は終演までずっと気が気じゃない様子で暗闇のなかポップコーンを拾い集めていた。もちろん隣の私も終始気が気じゃない。結局、あのとき観た映画は何だったろうか。女性が食べていたポップコーンがキャラメル風味だったのは確かに記憶に残っているのだが。
#ずっと隣で
「もっと知りたい!」と少年少女たちが探究心に身を任せ、昆虫を飼ってみたり、辞書を捲ったりしている光景はとても微笑ましい。だが、大人の立場からその様子を見ると、私は少し切なさに似た感情を覚えてしまう。とことん知った先にあるのは実につまらない科学現象だったり、一部の人間の都合で造られたシステムでしかなかったりするのだ。子供たちが夢を見るほど、彼らのまだ知らない現実世界はそこまで幻想に満ち溢れていない。「知りたい」という気持ちには常に現実と向き合うための『覚悟』が伴うのだ。これから探究を始めようとしている若者には少々辛辣な文章になってしまったかもしれない。しかし、「もっと知りたい」ことを知り尽くした果ての貴方は、今よりももっと現実に向き合うことのできる逞しい大人へと成長していることだろう。
#もっと知りたい
平穏......平らで穏やかな日常などあってたまるものか。ドライブで例えるなら、晴れた日にコンクリートでできた平坦な道路をただひたすら無難に走るだけの所業だろう。僕が運転手ならあえてアクセルを強く踏むね。そうして他の誰よりも早く目的地へ着こうとするだろう。それが明日や明後日、ゆくゆくはその遥か先の未来を豊かにするための礎となるのだから。僕にとって平穏とは好機だ。今日も僕はアクセルを踏むよ。ーーーこうして彼のエンジンは、日に日に寿命へと近づいてゆくのであった。
#平穏な日常