どうしてこの世界は
世界は世界
どうしても世界
世界はこの世界で
この世界をどうにかしたいの?
この世界とあの世界は繋がらない
それでも同じ世界に包まれてる
どうにかしたいって判らなくはないけど
更に判らなくなっていく
だけど共に過ぎて、やがて同じになる
だから共に過ぎて、やがて違っていくんだよ
君と歩いた道
道を歩いた君と
沢山の人が同じ道を歩いてる
それでもそれぞれは違う道
立ち止まれるまで歩くしかない道
毎日を繰り返してると
やがてその行動は自動的になる
自動ではなく自動的になる
的が大切で
道は自動だけど
道の歩き方は自動的
道は変えられないけど
歩き方は変えられる
君と歩いた道は
君も歩いた道で
私と同じ道ではなかった
それでも一緒に歩いた道だったね
夢見る少女のように
現実を知らない人達のこと?
婚活女子とか就職先の希望などなど
自分を商品として見てるのかも
売れて当たり前だから値段を上げてる
仕事や家庭を知ってれば
ズレてるって判ると思うんだけど
自分が特別だとでも考えてるのかな
何処にでも勘違い野郎が多少はいるらしい
そんな間違いが溢れてて
好きで溺れてるなら
死ぬまで溺れてればいいんじゃない
醜いから私が知らない場所でご自由に
夢見ることは悪くない
少女なら尚更に悪くはない
ただ現実を知ることになると思う
夢を実現させるのには
夢が現実ではないって知らないと
妄想を夢や現実と間違われても、かなり困る
仕事や人間関係は売り物ではない
基本的には騙されてるんだと思いたいが
私はその現実を知らない
多分、知っても言えることはないと考えてる
さあ行こう
何処に行こうとも
行ってきたらいいんじゃない
何処まで行こうとも
ここに持ってこれるモノは
一般の範囲内まで
辿り着けても
誰にも渡せはしない
でも、それでいいのだと考えてる
んー、いつにも増して疲れているんだけど
最前線で最高峰はAiにある
私なんかじゃ到底到達しない
表現の世界は人間にある
Aiに言語化を任せる事が出来ても
人間が評価をする
人間にしか再現が出来ない
人間としての可能性
Aiが媒体な様に
我々には我々が媒体なんだから
競う場所と相手が違ってるって判るよね?
水たまりに映る空
空があり
水たまりがあり
水たまりの中にあるのは
水たまりを見てる誰の中にもある
映す事が出来る、その誰かを
何を見てるのだろうと通り過ぎてく私
空が映ってる水たまりの中に
水たまりはいないんじゃないかなっと
私は空に映ってる私が見えない
水たまりも空も誰かを見れないように
水たまりってだけなら
川も海も何処にでもいる誰かも
全てが同じような気もする
何が映ってるかではなく
誰が見ているのか、なのかもしれない