合わせ鏡の何番目の自分が成り代わろうとしてくる、だとか、鏡の自分と手を合わせると入れ替わる、とか。
こういった類の、数多ある都市伝説を子供の頃に「怖い話」として楽しんだことのある人は多いだろう。しばらく夜や鏡が怖いと思っていた人も同じくらい居るのではないだろうか。
そして今は、それが娯楽だと知っている。
さて、ありえない、とはよくいったものである。一般に、「無い」ことの証明は悪魔のそれと言われ、ほぼ不可能である。
では鏡に映るのが確かに自分だとどうして言い切れるのか。
誰もその向こう側を見たことはないのにね
鏡の中の自分
春には桜が咲き、夏は神社の祭りと夜空に咲く大輪の花。秋には稲穂が風に揺れ、冬は雪の中で除夜の鐘が響く。
菜の花の隣の小川、涼しげな波の音も、夕暮れの寂寥の虫の声も、雪が音を消した道にざくざくとなる足音も
今や幻、あの景色。
理想郷
扇風機と風鈴で乗り切れる夏
懐かしく思うこと
お題を見た時から脳内で止まらなくなったので巻き込みます。
コッコーロオドル!アンコール!
…すみませんでした。
メールが当たり前になった。SNSが当たり前になった。
今日鉛筆を握って手紙やら何やらしたためる機会は、勉学以外では珍しいと言っても良いだろう。たとえば便箋を選んで、何を書くか小一時間悩み、書き損じが積み重なる光景はデジタルに取って代わられた。
1番硬い鉱物であるダイヤモンドは、地下深くで高温と高圧にさらされてできると聞いた。永い時を経て、炭素は燦然と輝く石となる。
ふと手の中の鉛筆を見た。
いつか、これもダイヤモンドになるだろうか。握る力と冷めやらぬ熱が、積み重ねた跡が、私にとってそれであると言えるだろうか。
一つ頭を振って、目の前のノートに意識を戻した。
少しばかり強くなった筆跡、これも固い意志であるのだから。
力を込めて