『何もいらない』
兄神と妹神シリーズ
「なあ部下よ。どうしてこんな書類仕事が必要なんだ?」
「それは間違いなくあなたの意思を下に伝えるためです」
それは俺にとって単純な疑問でもあった。対する部下の答えは単純明快で素っ気ない。伝言ゲームだといつどこで捻れ誤った意思が伝わるかわからないもので。…との、事だ。
せめて同僚同士だけでも意思統一は図りたいんですよ、俺たちは。もっと下になると本当に捻れるんで。そう、寡黙な部下にしては珍しく早口で捲し立てられる。先の大戦で反乱した一派のこととか覚えてます?あれ、伝言ゲームの弊害ですよ。まあ貴方が鎮圧しましたけど。出来上がった書類を捲りつつ、部下の視線はこちらの止まったペン先から外れない。
麗らかな午後。心地よい日差し。
窓の外からははしゃぐ妹の声が響いてくる。
今日は珍しく調子が良いと言うので。庭への散策を許可したのはついさっきのことだ。きっと彼女の訪れに喜んだ庭の花か、訪れた鳥がその美しさを讃えているのだろう。窓の外に顔を向ければ、眼前には広い庭。白い影。侍女達が見守る中、妹が散策する姿が見える。風に弄ばれる髪はそのままに、今日も俺の女神は春の化身のごとく美しい。…いや実際、春も司っていたような気がする。
微笑ましげに見守る侍女たちと同じ顔で目を細めていると、不意に彼女の視線が上がった。ばっちりと符合する視線。どういった表情を浮かべようか迷っているうちに、向こうの紫の瞳がにっこりと細められた。
「見よ、我が妹がこちらに気付いたぞ」
「そりゃ気付くでしょうよ」
あなたの目力えげつないんですよ。呆れたように窓の外に目をやって、部下はため息をついた。
「アレはこちらの意図を常に汲んでくれると言うのに」
「妹さんと俺たちを一緒にしないでください」
良く似た顔、良く似た瞳を持って俺たちは存在している、らしい。お互いの補色の色と性質を宿して。再び書類に目を落として、その言葉の意味を考える。妹は常にこちらの意図を汲んでくれる。逆もまた然り。結果はどうあれ、互いに互いの意図や希望を取り間違えた事はない。
「妹さえ居れば他は要らぬのになぁ」
「色々と崩壊します、諦めてください」
お互い揃えば十全に。この真円を描く関係は、他人には理解できぬ感覚らしい。もともとひとつ。互いの手を繋ぐために2つに分かれたようなもの。自分の手だけでは握手も難しいだろうと。…少し世界に忖度をしたのは昔のこと。
わざと割った存在は今日も世界を謳歌する。
言葉も互いに必要とせず、他人の介在も要らない。完全に満ち、欠けることのない、同じ蓮台の花。半座を分かつ唯一無二の関係性━━を、きっと世界は畏れたのだろう。人も神も世界さえも、おそれることは変わらない。この世で1番恐ろしいのは必要とされぬ事。すなわち無関心と忘却である。
わざと割った身の、僅かな隙間を逃さず世界は流れ込んだ。その美しさで目を奪い、彼女を彩る調和を以てして、その必要性を訴えかける。知ろうとすれば全て整う。『何も要らぬ』と嘯くこの口を、黙らせんとする世界のなんといじらしい努力か。
「他には何も要らぬのになぁ」
「まだ言いますか」
「言い続けるとも」
いつか世界が我々を必要としなくなった時、その時こそ再び俺たちはひとつになるのだろう。誰にも気づかれる事なくひっそりと。そうして、再びこの存在は十全へと戻るのだ。
「…ああ、何も要らないのになぁ」
いつかいらないと言われるまで。
それまでは、もうしばらく付き合おうか。
まだまだ手の掛かりそうな子らの差し出してきた願いに目を落として、兄神は小さく笑った。
もしも未来を見れるなら
「もしも未来を見れるなら。どんな未来が見たいですか?」
膝に懐く妹が、戯れに聞いてきたのが全ての始まり。
執務室の、応接用のソファー。そこが妹お気に入りの昼寝ポイントだと気づいたのはつい最近のことである。お互い気配には聡く、互いの無事を心で無意識に探っている。「距離が近いんですね」とは部下の言葉だ。もちろんその部下の言葉は丁寧に黙殺した。わざわざ当たり前のことを言いふらす必要は無い。
万能の能力者と言われる妹だが、その力は決して万能などでは無いと、兄は知っている。実際、万能ならばまずその病弱な身体をなんとかして欲しいと妹に泣きながら懇願した幼い頃の自分は間違っていない。あれは妹が高熱を出して生死を彷徨った時だったか…。魔法のランプがあれば間違いなく彼女の身体の健康と健常さを祈っていたし、現に今も祈っている。この不思議に溢れる世界ならば魔法のランプぐらいあって良いはずなのだ。
朝から少し熱っぽいと語る彼女が心配で、寝室で仕事をしていたら部下から再三の呼び出しを食らってしまった。仕方なく離れたわずかな隙に、空になった寝台を見つけたときの俺の、兄の気持ちを考えて欲しい。俺に残された唯一の肉親、それが妹という女神である。その能力故に、彼女は衆目の的だし、外は危険な狼で溢れかえっているというのに。
結局、妥協案で部下も訪れる執務室で彼女が休むことになった。正直、ありえない。最初は執務机できちんと仕事をしていた。彼女はソファーで。うつらうつらする彼女が、ちゃんと毛布を被っているか心配になって確認すること数回。水を採っているか心配になって取り替えること数回。書類配達に来た部下も唖然とした目で俺たち兄妹を見ているし、なによりちゃんとした場所で休ませてやるのが保護者として、兄としての適切な行動なのではないのか。
「いえ、貴方のそれは猫を構い倒す飼い主のそれです」
「…嘘だろう」
先日ネコチャンを飼い始めた部下から話は聞いてはいた。妹以外に興味が無く軽く聞き流していたが、記憶にはある。
「…構い倒すと衰弱していくという話ではなかったか?」
「そうです」
…妹、死ぬのか?
み、認めない。認めないぞ!と威嚇の意味を込めて妹を抱きしめる。部下を睨んでみせれば、目に見えて部下が慌て出した。心なしか顔色が悪い。なんだお前も体調が悪いのか。
「威圧するのはやめてください…常人ならば普通に死にます。あくまで例えです。あと、そんなに強く抱きしめたらただでさえ細いその身体、折れますよ」
大事なのは適切な距離です!!!
そう再三念押しして去っていった部下。
落ち着かないため、結局は同じソファーで仕事をしている。
「…休めているか?」
離れることはできる。なんなら寝室への直行便も可能だ。しかし離れるとこっちはこっちで心配で心配で仕事にならないという結構なオマケ付きなんだが。
「大丈夫です…」
くすくす笑って膝に懐く姿を見下ろす。昔は逆でした、懐かしい。そう言う妹に苦く昔を思い出す。昔から妹の膝に縋っていたのは兄である自分の方だった。『死なないで』『一緒に居て』『僕を置いていかないで』今にして思えばずいぶんと独りよがりな願い事ばかり。それでも願いの根底は変わらない。
「もしも未来を見れるなら。どんな未来が見たいですか?」
「おや、妹殿は未来視の能力もおありだったか」
妹に、そんな能力は無い。あくまで戯れの範囲内だろう。
…少なくとも今夜のごはんはお粥ですね。
少し遠い目で呟かれる言葉は結構な精度の未来図である。
「…そうだな。まずは未来に光あれ。
闇は深いが平和を望み続ける強い精神が世界に満ちよ。あとは我が妹殿が心身健康で健やかであれば言うことは無い」
「創界神らしいお言葉ですね。
…最後のはまあ、努力しますけど」
「そうとも。努力してくれ」
見たい未来のためには
進まなければならない。
面倒だが
何でも叶う魔法のランプはまだまだ実現不可能のようだ。
無色の世界。
「自身のプレイスタイルを決めるのは諸刃の剣。
君は現にもう2回もその手で勝っている」
そう兄さまが彼に言ったことを、昨日のように思い出せる。
そういう兄さまも、自身の『白』に誇りを持って使っている。
似たもの同士、内に秘めた熱さも同じ、決めたことは譲らない。そんなところも良く似ていた、と思う。だからこそ、彼に近づいた。戯れに近づいた。「私は赤の輝きに魅入られただけに過ぎません」…それは本当。ちょっとしたお節介、そして彼にこの世界を知って欲しかった、そんな意図もあった。
「彼には無事に渡せたかい?」
部屋に帰ったら、珍しく兄は部屋に居た。
こちらのお節介も全て見透かされていたようだったけれど。
「…はい、渡せました」
あっさり降参して白状すると、兄は小さく笑ったようだった。
━━白。何者にも染まらぬ純白の騎士。私だけの騎士。
自身の信念をその鋭い棘で守るからこそ、薔薇は美しい。
私のためにだけ咲く、たったひとつの白い薔薇。
白皙の美貌。感情の少ない冷めた瞳。
どんな時でも冷静さを失わない。そんな瞳が、私を映す時だけ柔らかく細められることを良く知っている。特別、とくべつ。私だけが、兄の特別。色々な人達から特別扱いはされて来た、現に今だってされている。広い部屋、2人だけしか入れない部屋。兄がこの部屋に誰も入れたがらないことは良く知っている。きっと部屋の外では、部下が進捗の報告に今か今かと兄を待っている筈だ。
「…出かけてくるよ」
部下に対するのとは大きく違う声。温かい声。
「はい、いってらっしゃいませ」
柔らかく頭を撫でられて、その手が不自然に止まる。目線の先には私の胸元で浮かび上がる赤いルビー、赤のコア。
「…先ほどまで赤の世界に居ましたので」
少し言い訳がましくなるのは何故なのか。他人ではあり得ない魂の発現、その頻度。私の能力は全ての世界の影響を、受ける。赤の世界なら赤色に。青の世界なら青色に。それぞれの象徴を変幻自在に身に宿すこの能力。…染まりやすい、だが決して何者にも染まらない不安定な輝きの色。周囲が特別扱いする全ての元凶。全ての者が夢見る『可能性』、そんなものよりたったひとつの色に染まれたらどれだけ良いか。
「どうせなら白が良いのに」
「…それは、こまったね」
今居るのは白の世界。ならばここは白だろうと愚痴れば、小さく兄に笑われた。まるで私は幼い子どものよう。甘えから少し頬をふくらまして見せれば、目の前の彼は蕩けるように微笑んだ。途端に氷の彫像が人間になる。愛しげに蜂蜜色の瞳が細められて、何も言わないけれどその態度は何よりも雄弁だった。
この力は世界の根幹と繋がっている。世界から最も祝福された象徴、そして凶事の源でもある。何かと便利な能力でもあるが、こうして私の在り方は他者にも把握されやすい。
「なら、これで」
そっと恭しく手をかざされて、優しくコアが輝いた。赤のコアが霧散し、代わりに白い輝きが姿を現す。兄と揃いの、白い、ダイヤモンド。私の大好きな色。
「…んっ」
一拍遅れて押し出される赤い力の残滓に、思わず目を細めた。
━━染め替えられた、と気付いた瞬間、自身を襲った気恥ずかしさ。それでも嬉しいのだから自分でも救いようがない。
「…ご機嫌いかがかな、姫」
「…悪くありませんわ、王」
気恥ずかしさを誤魔化すように、戯けたようにお互い澄まして取り繕う。すぐに耐えられなくなって小さく笑った…過去を懐かしむように。私たちはたまに、こうしてふたりだけで遊ぶ事がある。10代の子供らしく。12と15の子どもらしく。そこに、そっと載せられた本心にはお互い見ないフリをして。
前世で夫婦だった私たちが、今世で兄妹とはなんの皮肉か。
「じゃあ、今度こそ行ってくるよ」
「はい。いってらっしゃいませ」
閉まるドア。ガチャンと重い音を立てて落とされる鍵の音。別に彼自身は私を閉じ込めたい訳ではないのだろう。ただ心配なだけなのだ、あの兄は。優しい声音と、冷たい鍵の音の対比がこの広い部屋に大きく響くというだけで。兄は手の届かない場で私が損なわれることを何よりも嫌う。だから手を尽くす。実直に、ひたむきに。欲望渦巻くこの世界で、兄のそばだけが唯一、安心できる。
途端に色を無くした世界に、目を閉じる。
きっとあの兄の歩みは止まらないのだろう。
かつて王で、今も騎士で、その孤高の色は無色に見えてこの世界で1番遠い色をしている。
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彼女の在り方は奇跡なのだと、決して損なわせてはならないと、ずっと言い聞かせられて来た。
そして同時に突きつけられても来た。彼女の能力は唯一無二の貴重なもの。そしてその根幹は兄であるお前への家族愛である、と。
兄というには気安さがなく、明らかな権力勾配があった。妹はこちらの言うことに必ず従うし、元々物静かであまり自分から意見を言う子では無かった。ただ常に行動は共にしている。一方的に兄が妹を連れ回しているように部下たちには見えているはずだ。現に、妹に何かをさせたいならば必ず俺を通すように、という流れを早々に作った。そこに不満はない。「全ては兄さまにお任せしていますので」彼女自身もそれに追従してくれている。本心はどうあれ、無表情、無感動、そして自分の意思を放棄する言動。そう見えるように振る舞っていることを、俺だけは知っている。誰よりも優しく動植物に心寄せるその性根に蓋をして、その美しさを隠している。人形よりも人形らしいと陰口を叩かれたことも1度や2度では無い。
意思の放棄を強制したことはない、が、それが妹の処世術なのだと俺は知っている。そうしなければ、彼女の心は耐えられなかった…。唯一の肉親、俺の手の届く範囲でのみ自由に羽ばたける、儚くも美しい絶対唯一の蝶。せめて安らげる場を、と彼女が絶えず欲望に晒され続けることに嫌気がさして、全ての者を退けて作った白銀の城。白亜の城。
ようやく安心できる場を見つけた妹は、ゆっくりと生来の可憐さを表に覗かせるようになった。蝶が羽化するように、ゆっくりと。徐々に人混みにも慣れ、ほんの少しその感情を顔に出しては無邪気にこちらに手を伸ばす。安心して身を委ねる。それがどんなにこちらの心を揺らしてくることか、彼女本人だけが知らない。ただの兄妹というには距離が近い。それは幼少期を襲った理不尽な暴力の嵐のせいだったし、彼女自身の特殊性もあったように思う。
前世で自分の花嫁だった彼女。
記憶の中の彼女は美しく笑う。
兄妹となった今と全く変わらない美しい貌で。
「彼には無事に渡せたかい?」
思索の海から無理矢理頭を上げて、部屋に帰って来た彼女に目線を向ける。少し驚いた顔をしているのは、俺が部屋に居るとは思って居なかったからだろう。他人からは睨んでるとかよく怖がられる顔も、彼女を驚かせる材料にはならない。
「はい、渡せました」
珍しく単独行動した妹の、これまた珍しいお節介。赤の世界に来た少年の、その仲間の家族の所持品。粗末な小さな首飾り。彼らのさがす、家族の手がかり。
「家族だから」と、きっとそんな彼女の優しさに小さく笑みが漏れた。「きっと彼らは泣いて感謝するだろうね」ただ、たどり着けるかどうかは別問題。妹の優しさに好感しか無くとも、彼らの行動には興味が無かった。
「…出かけてくるよ」
「はい、いってらっしゃいませ」
その『出かける先』が、先ほどの好意を潰すためのものだと妹は気づいているのだろうか。
誤魔化すように頭を撫でて、その横を通り過ぎようとする。…が、その胸元で主張する輝きがあった。
「…先ほどまで赤の世界に居ましたので」
赤いルビー。燃え盛る情熱の色。赤の世界の象徴。
彼女に他意はない。彼女の特殊性は全ての色を持ち、全ての色に染まるその力にある。それでも、先ほどまで戦っていたあの赤い少年を思い出して、少しだけ不愉快な気分になった。
「どうせなら白が良いのに」
「…それは、こまったね」
ささくれ立った心が一瞬で凪ぐ。
彼女に他意は無いのだろう。純粋に、どうせなら同じ色が良いと強請る子どもの心で。年相応に、少し膨らませた頬が愛らしい。
それでも好きな相手から、道ならぬ想いを募らせている相手からそう言われるのは結構な好意の暴風雨だ。
頬が上がるのを止められずに、その愛おしさに目を細めた。どれだけ周囲から冷徹と恐れられても、彼女にだけは敵わない。
「なら、これで」
そっと手を翳して、自分の色を流し込む。あわよくば染まれ、できれば、ずっと永遠に。そんな独占欲を「仕方ないな」と、妹の機嫌を取る兄の顔で覆い隠しながら。
「…んっ」
追い出された力は霧散して、彼女の背後で赤い蝶になった。すぐ虚空に溶けたその姿に、内心溜飲が下がるのは我ながら現金なことだ。入れ替わるように現れた白。純白の輝き。息を詰める彼女に仄暗い喜びさえ感じてしまって、開けないはずの扉さえ容易に開いてしまいそうになる。全部捨て去って、彼女の甘美な毒に溺れられたらどれだけ幸せなことか。
「…ご機嫌いかがかな、姫」
「…悪くありませんわ、王」
兄らしく澄まして見せて、「これで」なんでとんでもない。実際、この程度で済んでホッとしている。取り繕うように戯けて見せれば、彼女は朗らかに笑った。醜い欲望も、なにも知らない年相応の子どもの顔で。
「じゃあ、今度こそ行ってくるよ」
「はい。いってらっしゃいませ」
見送る視線に手を挙げて、応える。閉まる扉。ガチャンと重たく落とした鍵を、彼女はどう思っているだろうか。
ただの過保護な兄か、それとも前世からの重すぎる執着か。どちらにせよ、自分の囲った世界以外であの蝶を飛ばす勇気は無い。━━今のところは。
ならば世界の方を広げるまで。彼女が安心して羽ばたける世界を、ここ以外にも広げる。そんな臆病な野心家を、羽化したばかりの白い蝶が見ていた。