ただ怠惰を謳歌していれば1000年経っていた。
故郷が草の跡になっていた。
それだけ。
#1000年先も
僕はひとり。
優しいあの人が突然消えた。
猫みたいに、まるで音もなく忽然と、まるで始めからいなかったかのように。
あの人の背中もあの人の横顔も何処にも見当たらない。部屋も既に整理されていたようで、本当にあの人らしく他人に迷惑を掛けないように計画的だった。
本当に優しい人は消える時に何も言わない。
昔Twitterで見た情報が確かだった事に驚いた。それ以上に、あの人が消えたくなった原因が自分でない事を祈っている自分がいた。本当に屑だ。自分の心の安定の為にあの人の動機を勝手に書き換えている。
どうして。周りが口々にそう言った。
一体何があの子を追い詰めたの。
私達だよ。全員加害者なんだよ。
声を上げなかった彼女が悪いんじゃない。
私達が鈍感すぎただけだ。
彼女の優しさが消費されている事に、気付けなかった、気付こうとしなかったのは私達なんだよ。
#優しさ
貴方といつも通り話せて安心する。
貴方が他の人と話しているのを見て不安になる。
貴方が私といる時に笑うから安心する。
貴方が私には相談できない事があると気付いて不安になる。
貴方が私の処に来てくれると安心する。
貴方が他の人の処に行くと不安になる。
毎日、安心と不安の繰り返し。
貴方はきっとなんとも思っていないんだろうね。
#安心と不安
逆光を浴びると同時に観客が沸き立つ。
ステージが一体になって紡ぎ出す音の障壁。
他に何者も立ち入る事を許さないように見えて、一瞬でも目に止まれば引き込まれてしまう絶対領域。
その中心に私は立っている。
ギターとベースの音の紡ぎ合わせとドラムの後押しが全身に効いて、脳の快楽作用が膨れ上がっていく。
歌え、と細胞の一つ一つが鳴り止まない。
叫べ、本能の赴くままに。
この世の全てが私の味方をしてくれている!
#逆光
「人を、殺しました」
己の生徒からそう電話が掛かってきたのは、丁度風呂から上がってテレビでも見ようかとリモコンを手に取った時だった。普段は鳴らない筈の固定電話。
不思議に思って一旦リモコンを置き、受話器を耳に当てる。そこから聞こえてきたのは自分が担任を持つクラスの中で、どちらかと言えば一軍と呼ばれる内の一人の男の子だった。豪快に笑う子だという印象だったから、正直そう告げた声と彼の姿が一致しなかった。
声の末端が微かに震えている。こちらに助けを求めているのだろう、か。だからといって自分自身手が震えていて上手く返せない。問い質したい事は山程ある筈なのに言葉が喉を通り抜けてくれない。
でも何か言わなければ彼が受話器の向こうから消えてしまいそうな気がしたので、ひりついた喉を唾で潤してなんとか声を出した。
「誰を?」
違う違う、そうじゃないだろう!「あ」の口になった時からやめておけと理性は拒否していたのに。
しかし彼の声の震えは心なしか小さくなっており、ぼそりと「父です」と答えた。父親か。いや、だから何という事もないが。三者懇談に来たのも母だったし、いつも電話に出ていたのも母だったから彼の父の印象は全くと言っていい程無かった。
一度口にしてしまえば案外続く言葉も出てくるようで、義務感がその場忍びか好奇心かの質問がぼろぼろと口を零れ落ちてくる。
「どうして殺したの?」
「母さんを殴ってた、から」
「どうやって殺したの?」
「突き飛ばしたら、そのまま頭が角に当たって、息しなくなってた」
「…これからどうすれば良いと思う?」
「…わからない」
から、電話した。また声が頼りなくなった。
「どうしよう、先生」
いかんせんこんな事態に陥った事が無いので聞かれても困るのというのが本音だ。だのに普段人に頼らない彼が一番初めに頼ったのが自分だという事実に内心喜んでいるものだから、大概狂っている。
こういう時、普通ならどうするのだろう。警察にでも突き出すのだろうな。けれどこんなに頼りない彼を裏切るような真似をして良いのだろうか。きっと誰も責めはしないのにそれは間違った選択肢のような気がした。
あぁ、その行動を許せないのは多分自分だ。
「…じゃあ、ホットミルク、作ろう」
受話器の向こうから彼の素っ頓狂な声が聞こえる。自分でも自分が言った事に驚いているのだから当然だろう。でも今更取り消しは出来ない。
「分かっ、た」
彼は辿々しく返事をすると暫く受話器から離れ、戻ってきたら律儀に「作ってきました」と報告してきた。
「飲んだ?」
「まだ」
「飲んでみ。美味しいし落ち着くよ」
液体を嚥下する音が聞こえる。その間は特に何も考えなかった。ただ彼が飲み終わるのを待った。
体が暖まれば必然的に心も暖かくなる。幾年もの人生で学んだ数少ない内の一つだ。
「…飲みました」
「美味しい?」
「…たぶん」
「そっか、そりゃ良かった」
何も良くはない、のにそんな事を言えてしまえる自分が恐ろしい。人は予想外の展開に遭遇した時は意外と冷静になるのだと新たに学んだ。彼は暫く何も言わなかったが、やがて床に蹲み込むような衣擦れの音がした。
「…先生に言って良かった」
「そう思ってくれて良かった。…俺一応これでも先生だから、一緒に死体を埋めるとか、全部一緒に隠すとかは出来ないんだよね」
「それは、俺も嫌」
「うん。だから明日一緒に警察行こう」
「……うん」
「大変だろうけど、俺が全部一緒にやるから。大舟に乗ったつもりでいて」
「…うん」
ありがとう、先生。
そう言って彼は初めて笑った。そのおかげでようやく息を吐く。これで合っていたかは分からない。そもそも正解なんてものはないだろうし、限りなく正しい道を促したとして彼が笑顔になれていたかは分からない。だから、これで良いんだと思う。
ホットミルク一杯で彼が笑顔になってくれるなら。
#特別な夜