澄んだ瞳
寒くて寒くて仕方なかった。ぼくは木の下で、うつむいて膝を抱えている。もうどれくらいの間、こうしているのかもわからなかった。今日はパパとママとお姉ちゃんでキャンプに来ていた。家族で出かけるのは久しぶりだったから嬉しかった。楽しい時間が過ぎるのは早いもので、帰る時間が来るのはあっという間だった。パパとママが帰る道を歩き出して、僕とお姉ちゃんに帰るよと声をかけた。お姉ちゃんははぁいと返事をしてついていって、僕も行こうと思った。でもつい、一瞬だけ、綺麗なお星様に見惚れてしまった。気づいたら、パパもママもお姉ちゃんもいなくなっていた。慌てて追いかけたけど3人は見つからなくて気づいたら知らない場所にいた。みんなでキャンプをしていた場所に戻ろうとしても、なぜかたどり着けなかった。しかも、歩いても歩いても誰にも出会えない。暗い森の中、僕はひとりぼっちだった。ずいぶん長い間歩いて、もう歩けなくなって、僕はここに腰を下ろした。誰かが見つけてくれるのを待とうと思ったのか、あるいは諦めただけなのか、それはわからなかったけど。それから、僕はずっとここでうずくまっている。
「おい」
急にぶっきらぼうに声をかけられた。僕よりはお兄さんだけど、男の子の声。そっと顔を上げる。顔立ちは整っているが、特別目を引く容姿ではない。少し長めの黒髪、服はシンプルなパーカー。背も低くも高くもなく。人混みに紛れたら、一瞬で見失ってしまいそうな平凡な容姿。それなのに、彼から目を離すことができない。それは、彼の瞳が特別だったからだ。彼の瞳は恐ろしいほど澄んでいて、またたく一番星を閉じ込めたようにきらめいている。誰もを惹きつけるブルーの輝きを放っている。星の瞳だ、と思った。お兄さんは僕のことを変なモノでも見るかのようにまじまじと見て、それから、生きてるよなァどうみても、とか面倒くせェなぁ、とかぶつぶつ呟いたあと、はぁ、と大きな大きなため息をついた。
「……子供は嫌いだ。案内してやるからさっさと帰れ」
自分だって子供のくせに、お兄さんは無表情で冷たくそう言った。彼はここからの帰り道を知っているらしい。言葉とは裏腹に、座り込む僕にそっと手を差し伸べてくれている。そのまま、僕の手を優しく握って、歩くペースを合わせて歩いてくれた。彼がまたたきををするたび、星の瞳がきらりきらりと光っていた。本当に綺麗な瞳。あのうつくしい青い光をもっと間近で見てみたいという欲が、僕の中で少しずつ大きくなっていた。いつのまにか、僕は彼の瞳に魅了されていた。このまま帰されて彼と別れるのは嫌だと思った。あの瞳の星をずっとそばで見つめられるならこのまま帰れなくてもいいとさえ思えた。おかしい、さっきまで僕はあんなにも両親や姉が恋しかったのに。しかし、今はそんなことはどうでも良かった。今も彼の瞳の一等星は僕のそばで今もまたたいている。これ以上の幸福はないと思った。ずっとこうしていられたらいいのにと思った。僕は立ち止まって、彼を見上げた。
彼はその意味のわからない行動に眉を顰めて、その青い星の瞳で、僕のことを困惑したように見つめている。彼にそんな顔をさせたくないのに、僕のことでその瞳が陰るなんて許せないのに。
「いきなりどうした」
「ぼく、帰らなくていい。お兄さんとずっと一緒がいいよ」
星のそばにいたい。あわよくば、その星を手に入れたいと思った。それ以外の全てを投げ出してもいいと思えた。それは紛れもない本心だった。彼は僕の言葉を聞くなり、さぁっと青ざめて、息しろ、と怒鳴った。そう言われて初めて僕は自分が呼吸をしていないことに気がついた。彼の瞳があんまりうつくしいので息をするのも忘れていた。彼はチッと舌打ちして、乱暴に僕の手をつかんで急に走り出した。細い腕のどこにそんな力があったのか、僕の手を強く強く握って走るから痛かった。すごく焦っているみたいだった。
「星は見るもんなんだよ。近づきすぎたら焼けちまう」
なんのことだか、よくわからなかった。しかし、おにいさんが怖い声で言うから、あんまりにも真剣だったから、僕はこくこくと頷くしかなかった。それから、彼は僕と一言も喋ってくれなくなり、目線も絶対に合わせてくれなくなった。ぼくらはひたすら無言で走り続けた。やがて、パッとお兄さんが手を離した。ちょうど、最初に僕たちがキャンプをしている場所だった。いつの間にここに戻ってきていたんだろう。じゃあな、と彼はぶっきらぼうに言った。もう来んなよ、とも言っていた気がする。突き放すような声。それで僕はもう彼には二度と会えないのだと悟った。当然、パパやママやお姉ちゃんのことを思い出して、会いたくなった。あのまま星に魅入られていたら僕はどうなっていたのだろう。振り返ると彼は消えていた。空を見上げると満天の星空の中で一つの青い星が明るく光っていた。