星の瞳
ひどく寒い。ぼくの体は死んでいるのかと錯覚しそうな程に冷えきっていた。吐く息が白く染まることで、なんとか生きているのだとわかる。ぼくはうつむいて膝を抱えている。ここに座り込んでから、どれくらいの時間が経ったのだろう。それすらももうわからなかった。
ぼくは家族四人で星を見に来ていた。お父さんとお母さんとお姉ちゃん。森の中では、本当にたくさんの星が見えた。みんな揃って出かけるのは久しぶりだったし、夜に出かけることはなんだか特別な感じがして、真冬の寒さも忘れてぼくははしゃぎ回った。父が星の名前や星座に関するお話を話してくれるため飽きなかった。楽しい時間が過ぎるのは早いもので、帰る時間はあっという間に訪れた。僕とお姉ちゃんにもう帰ろうか、と声をかけてママとパパは帰る道を歩き出した。お姉ちゃんははぁいと返事をしてついていった。木々がざわざわ揺らめいた。僕も行こうと思った。でも、楽しい時間が終わるのが寂しかったぼくは、名残惜しくて、最後にほんの少しの間だけ、空を見上げた。その時、一等綺麗なお星様を見つけてしまった。その青い光に、魅了されてしまった。
ふと気づいたら、パパもママもお姉ちゃんもいなくなっていた。あわてて3人を追いかけて森の中を歩く。追いつけない。走る。見つからない。元いた場所に戻ろうとしても、気づけば自分がどこにいるのか分からなくなっていた。走っても走ってもどこにもたどり着けない。誰にも出会えない。同じ景色が永遠に続く。気が狂いそうなほどの静寂。まるでぼくは星空の世界に閉じ込められてしまったようだった。ぼくはひとりぼっちだった。さっきまで気にも止めていなかった空気の冷たさが、ぼくの体温を少しずつ奪っていった。やがて、ぼくは足を止めて、その場に腰を下ろした。とても疲れてしまった。少し休憩しようと思った。それからぼくはずっとここにいる。手足がかじかんで思うように動かない。寒い、寒いとそればかり考えていた。
「おい」
唐突に、ぶっきらぼうな声がした。男の子の声。そっと顔を上げる。声の主はぼくより少し年上──中学生くらいの少年だった。彼は実に奇特な少年であった。顔立ちは整っているが、特別目を引く容姿ではない。肌が白く、黒髪を短く切りそろえた髪型で、背は低くも高くもない。人混みに紛れたら、一瞬で見失ってしまいそうな平凡な容姿。にもかからわらず、ぼくは彼から目を離すことができなかった。なぜなら、彼の瞳にふしぎで抗い難い魅力を感じたからだ。彼の瞳は恐ろしいほど澄んでいて、ひとを惹きつける強烈なコバルトブルーの輝きを放っている。その美しさはぼくに畏怖すら感じさせた。ぼくはこんなに綺麗な物を今まで見たことがなかった。彼の瞳と比べればどんな宝石の輝きだって霞んでしまうだろう。星の瞳だ、とぼくは思った。
少年はぼくのことをを変なモノでも見るかのようにまじまじと見て、それから、いかにも面倒くさそうに、はぁ、と大きなため息をついた。
「ここは子供が来ちゃいけないところだ。案内してやるから、さっさと帰れ」
少年は無表情で冷たく言った。どうやら彼はここからの帰り道を知っているらしい。言葉とは裏腹に、ぼくにそっと手を差し伸べてくれている。僕は彼の手を取った。温かかった。
「……おれは子供が嫌いなんだよ。ほら、さっさといくぞ」
文句をを言いながらも、少年はぼくを気づかって歩くペースを合わせて歩いてくれた。繋いだ手から彼の体温が伝わってきた。彼の優しさに感謝しつつも、ぼくの頭の中は彼の瞳のことでいっぱいだった。
彼がまたたきををするたび、青い光がきらりきらりと光っていた。本当に綺麗な瞳。あのうつくしいきらめきをもっと間近で見てみたいという欲が、僕の中で少しずつ大きくなっていた。このまま彼と別れるのは嫌だと思った。あの瞳をずっとそばで見つめられるならこのまま帰れなくてもいいとさえ思えた。あれ、さっきまで僕はあんなにも両親や姉にあいたいとおもっていたのに。そんな雑念は一瞬で消えてしまった。もはやどうでもよかった。今も彼の瞳の星は僕のそばで今もまたたいている。彼の手から伝わる熱が僕を温めてくれる。これ以上の幸福はないと思った。ずっとこうしていられたらいいのにと思った。
ぼくは立ち止まった。彼を見上げた。少年は眉を顰めて、その星の瞳で、僕のことを困惑したように見つめている。彼にそんな顔をして欲しくない。その瞳が陰るなんて許せないのに。
「いきなりどうした」
「ぼく、帰らなくていい。お兄さんとずっと一緒がいいよ」
星のそばにいたい。あわよくば、その星を手に入れたいと思った。それ以外の全てを投げ出してもいいと思えた。星空の世界に永遠に囚われたって構わない。やたら体が熱かった。彼の熱に燃やされているようだと思った。頭がふわふわして心地よかった。このまま燃えてしまって、自分も星の光を構成する1部になるのだ。それはとても幸せな事だと思った。
「───っ馬鹿、!! 」
少年の怒鳴り声にはっとした。彼は真っ青な顔をしていた。そう言われて初めて僕は自分が呼吸をしていないことに気がついた。彼の瞳があんまりうつくしいので忘れていた。彼はチッと舌打ちして、乱暴に僕の腕をつかんで急に走り出した。華奢な体のどこにそんな力があったのか、僕の腕を強く強く握って走るから痛かった。すごく焦っているみたいだった。
「星は見るもんなんだよ」
「近づきすぎたら焼けちまう」
なんのことだか、よくわからなかった。しかし、彼が怖い声で言うから、あんまりにも真剣だったから、僕はこくこくと頷くしかなかった。それから、彼は僕と一言も喋ってくれなくなり、目線も絶対に合わせてくれなくなった。ぼくらはひたすら無言で走り続けた。やがて、パッとお兄さんが手を離した。ちょうど、最初に僕たちが星を眺めていた場所だった。いつの間にここに戻ってきていたんだろう。じゃあな、と彼はぶっきらぼうに言った。もう来んなよ、とも言っていた気がする。突き放すような声。しかしどこか安堵の滲んだ声。それで、僕はもう彼には二度と会えないのだと悟った。突然、パパやママやお姉ちゃんのことを思い出して、会いたくなった。そして、家族のことすらどうでもよくなっていたさっきまでの自分が恐ろしく思えた。あのまま星に魅入られていたら僕はどうなっていたのだろう。振り返ると、彼は消えていた。空を見上げると、満天の星空の中で、一つの青い星が強く光っていた。お父さんが青星と呼んでいた星だった。