いちばんに浮かんだのは彼のことだった。
制服を身にまとい、まだ青かったわたしたち。
放課後、きみが体育館で奏でるピアノの音色をこっそり聴くのが日課になっていた。最初は体育館の外から聴いて、一体どんな人が弾いてるのか気になった。だんだん君に近付いて初めて君と目があった。驚いたような焦ったような顔をして「すみません、すぐ帰ります」なんて逃げ出そうとする君を「待って。もう少しだけ聴かせて」と、少しゆとりのある袖を掴んで離さなかった春を覚えている。
それからは、彼の横顔を眺めながらピアノの音色を聴く日々が続いた。ふたりだけの時間、熱気のこもった体育館、手を伸ばせば君に触れられるくらいの距離。高鳴る鼓動をかき消す蝉の声に、少しだけ感謝した。
ピアノがなくても、わたしは彼の隣にいるようになった。
手を伸ばさなくても君に触れられる距離。たまに触れ合う指先と、交わす視線。秋の始まりを感じる肌寒さを君のブレザーが覆う。君の香りに包まれながらみた紅葉は、燃えているように鮮やかで美しかった。
「雨だし、暗くて危ないから」
本当は一人で帰れるけれど、1秒でも長く君と時間を共有したくて、君の言葉に甘える。その日は雨が降っていて、ひとつの傘をふたりで分かち合った。彼の右肩は濡れていて、それをあえて指摘して近付く。腕が絡み合う距離。
いつもの帰り道、雨の降る暗がり、いつもとは何かが違う。
君の顔が不意に近くなって、目が合う。ふたりの間に流れる沈黙をサインに、君の唇が触れる。
あれから10年近くが経って、いまだに君を思い出すことがある。紛れもなく、わたしの青春であり本物の初恋であった。
彼の連絡先は知らないし、知りたいとも思わない。むしろ、知らないほうが良いのだ。彼は美しい思い出のままで、私の中で生き続ける。青かったわたしたちは、ずっと熟さない。
知らない土地は楽しくてこわい。
使い慣れた路線、いつもの時間帯、いつもの風景、いつもの。平凡な毎日から抜け出せず、抜け出そうともせず、いつもの日常が始まる。ここで降りないで、いっそ終点まで行ってしまえたらいいのに。
知らない自分は楽しくてこわい。
常識人の自分、殻を破ったらどうなってしまうの。
髪をオレンジにして出勤してみようか。
平日の昼間からウイスキーを呷ろうか。
終点まで行く勇気も持てずに、ただ夢に浸る。
いつもの道、いつもは気付かなかった淡い水色の花。
勿忘草、こぼれ落ちた種から花を咲かせる。
知らない未来はこわくて楽しい。