きみとであってぼくがいる
きみとであったぼくがいる
きみとであったぼくだから
きみとであったぼくたちは
きみとであってぼくとつに
きみにいってわかれたら
きみからもらったおもいでは
いつかきみにかえそうと
きみにだまってこころのなかに
きみにいつかおもいをおくる
昔友達と心霊スポット旅をした帰りに高速道路上で3本の虹を見たことがある。
夕日が出ていてデカい雲が鬱蒼としたところから小雨が降っており、そこから柱のように虹がカーブして「スゲー」と言いながら友達が運転してる横でカメラにおさめていた。
虹はキレイでカラフルだったが、連なっていたのではなく雲の層の色々なところから突き出すような感じで出ており、生涯これを見ることはないのかもしれないと思った。
そして今思えばそんな経験が、自分にして見ればなんてことない事なのだが、貴重な経験だったな。
記憶はカラフルだが、今という時をもっと大切にしていけたらいいと思う。
楽園とはなにか?
楽園と聞いて思い浮かぶのは有名な曲平井堅の曲「楽園」と土曜か日曜の夕方に放送している「人生の楽園」を思い浮かべる。
「楽園」の曲のPVを観たことあるが、南の島の老人ホームの老人達が映る、なんとも言えない感じになる映像と音楽だったな。満たされた時間の中で今何を思ってるの?という詩がなんか思い出されるが、確かに満たされてあらゆる物を手に入れ余生は満足した時間を過ごしたらみんなすぐ認知症になってしまうだろうと思ってしまう。介護福祉士だったからそう思うのだろうか。仕事を定年退職し、余生はやりたい事をすると思っていたら認知症になってしまうとはなんとも頂けない話だろうと思う。
「人生の楽園」という番組も似たような話しだが余生を楽しく過ごす老人や、自分のやりたい事やって充実した生活を送る人が出てくるのだが、きっとみんながみんなこのような生活が送れるとは限らず、認知症一步手前の人間達が楽しく生活する楽園を求めて、たどり着いた先なのかな。介護では認知症の症状をなるべく進ませいないよう、なるべく本人の生活を尊重しやりたい事をやり、リハビリもしながら認知症の進行を緩やかにする必要があるのだが、余生はゆっくり生活をすると考えると大体の人は認知症になってしまうのかもしれないとはとんだ楽園なのかもしれない。それとも認知症になる事は「ギフト」とも言われているのだから認知症が実は神様から与えられたプレゼント、いわゆる「楽園」へのキップだったりするのだろうか?