冬休みは白い。
これまでの思い出の中で、白い景色の冬休みなど数えるほどしかなかったのに。
冬は雪が降るもの。そう刷り込まれている。だから冬という字を含む冬休みは雪を連想させる。
そもそも、冬休みだからといって雪が降らないといけないわけではない。冬休みと雪をセットで考えるのはわたしの先入観にすぎない。そろそろ脱却しなくては。
今年の冬は雪だるまにスイカでも持たせてみよう。冬の風物詩の中に夏の風物詩を入れてみるのだ。白い冬休みも少しは色づいてくれるだろう。まぁ雪が降ればの話だが。
手袋の形をよく見てみた。手の形に合わせて5本の指があり、手首までの部分を覆うようにできている。革手袋、ゴム手袋、軍手など、材質や用途は様々だがおおよその形は共通している。
他の共通を探していると、左手用と右手用があることが頭に浮かんだ。だが、これは全ての手袋に共通する特徴ではない。だって、使い捨てのビニール手袋なんかはどちらの手にもはめることができる。
では、左右の区別がある手袋と、左右の区別がない手袋の違いは何だろうか。それは、表と裏の区別、言い換えれば手の甲側と手のひら側の区別があることだろう。滑り止めのある軍手と滑り止めのない軍手をイメージするとわかりやすい。滑り止めのある軍手では、滑り止めはモノを握る方である手のひら側についている。つまり、滑り止めがついている方が手のひら側と決まる。そうすると自動的に左手用か右手用かが決まる。一方、滑り止めのついていない軍手はどちらの面も同じ性質をもつので手の甲側と手のひら側の区別はない。そして、ひっくり返すことができるので、左右の区別がない。
まとめると、手袋には指が5本あり、手首まで覆うという共通点がある。そして、表と裏の区別があるものには左手用と右手用の区別があり、表と裏の区別がなければどちらの手にもはめることができる。
こんなことに気がついたところで特に何のいいことはない。たぶん暇なんだと思う。世間はクリスマスやら年越しやらで賑わっているが、クリスマスは特に予定もなかったし年越しのときは毎年寝ている。
来年はもう少し世の中に参加した方がいいかもしれないと思った。とりあえず初日の出でも見ようかな。
私たちは物質の流れの中に形づくられる。 生きるということは、古いものを捨てて新しいものを取り込むこと。だから、私たちは常に新しい存在である。
そして、過去の自分はもはや自分ではない。状況や感情によって進む速さはまちまちだけれども、時間は常に一定の方向に進む。時の流れは止めることも戻すこともできない。その意味でも、私たちは常に新たな存在だ。