上手くいかなくたっていい
器用でも
要領がいいわけでもないのに
何でも上手にやろうとしてしまう
歳を重ねるごとに
自分には何ができて何ができないのか
少しずつ理解はしてきているつもりだけれども
それでもやっぱり
出来もしない「完璧」に
こだわっている自分がいるし
上手く出来ない自分に
イライラしたりする
ただここ数年は
自分にガッカリしたり落ち込んだりする反面
まぁ、そういう日もある、と
自分に言い聞かせることもできるようになってきた
上手くやるのは難しいくせに
諦めるのも難しい
だから、せめて
上手くいってもいかなくても
そんな日もある、と受けとめて
さらっと流せるようになりたいなと思う
喋よ花よ
蝶よ花よと甘やかされるのは
嫌いじゃないけど
蝶よ花よと甘やかすのも
嫌いじゃない
最初から決まってた
目に見えないものはあると思ってる
人間には遠く及ばないものがこの世にはたくさんあるし
人が認識できるものなんて世界のほんの少しなんだと思う
スピリチュアル的なものではなく
実際に酸素とか、紫外線とか
そういうものは目に見えない
でも確かにあるのだ
人間が頭を駆使したから認識できるようになった
まだ認識できていないものもたくさんあると思う
認識できてないもののほうがの多いかもしれない
だから
人間の一生が何かに決められているとしても
おかしくはない気がする
全員が生まれたら死ぬと決められている時点で
まずひとつ決められているわけだし
最初から決まっているのだとしたら
なるようにしかならないんだろうな
人間が選ぶものなんて
せいぜいそこに行くまでの過程なのかもしれない
決まっているのはラクで
でも少しだけ苦しいなって思う
太陽
私はどう考えても
「陽」に属する人間ではない
重々承知しているし
「陰」に属する自分は嫌いじゃない
でも私は太陽の下が好きだ
いい天気だとそれだけで嬉しい
明るいところを歩くのは楽しい
陰に属する人間ですが
天気がいい日は
のんびり陽の下を散歩するくらい
許されるよね
鐘の音
鐘の音は聞こえないけど
たまに、おりんの音が聞こえる
前の仕事をしてる時は
お経が聞こえる時もあった
年に一度、お坊さんが唱えに来てくれていた
おりんの音も
お経も
今はだいぶ「聞こえるだけのもの」になったけど
少し前までは聞こえてくると不思議な感覚になっていた
病気をして生死を彷徨う手術をしたあと
私は目覚めて、生きてる
でも
おりんやお経のはそれを揺るがすのだ
私はあの時
本当に目を覚ました?
今私が見ているものは
本当に目覚めてからのできごと?
私は、本当に生きてる?
時間が経つにつれ
生きてるからこその嬉しさや苦しさが
私は生きているのだと感じさせた
生きているかどうかという不安は
少しずつ小さくなった
もう感じたくはないけど
でもあの感覚はなんというか
忘れたくないなと思う
私が、生死の狭間にいた事を思い出す音