私の愛犬も母方のおじいちゃんも亡くなるのはあっという間だった。
小学5年生のとき、初めて何かを亡くす出来事と出会った。それが愛犬の死だった。真っ赤に目を腫らせて学校に行ったこと、よく覚えてる。絶対に人を噛まず、小さい私のこともしっかり聞いてくれる子で私の一番の親友であり大事な家族であった。原因は糖尿病だろうとされた。朝早くに亡くなっていたのを父が発見して私たちは飛び起きた。ずっと一緒にいようねって毎日愛犬に声をかけていたのに。1人にされたような喪失感が大きかった。愛犬は火葬されて共同墓地に埋められたそうだ。新たに犬を飼ってもやっぱりどこか寂しいんだ。
母方のおじいちゃんがこの世を去ったのは今年の10月。これもまた私にとって初めて身内を亡くした経験だった。おじいちゃんは今年から少し体調を崩して入院していて私は何度も暇があれば面会に行っていた。病状は改善されて顔色も良くなった。行く回数を重ねるほどおじいちゃんも私とたくさん話してくれた。でもその時がくるのはあっという間だった。誤嚥性肺炎を起こしたおじいちゃんは酸素マスクをつけ苦しそうな姿になってしまった。急なことだということもあったしあまりにも苦しそうで話すと涙がこぼれそうだった。泣かないように抑えて話があまりできずに帰ってしまったこと、今でも後悔している。その3日後、容態が急変したと病院から電話がありその1時間後に逝ってしまった。おじさんが行った時にはもう息はしていなかったと。母が行った時にはもう既に亡くなっていたと。私はおじいちゃんの最期を看取ることは出来なかった。最期になった記憶も後悔そのものだった。その後、火葬、お通夜、葬式が執り行われた。何をしても今でもおじいちゃんの死を受け入れられない。今でもおじいちゃんの最期の記憶、元気だった記憶、事ある毎に思い出してしまう。失ってしまった空間が埋まることは決してなくて、立ち直れずにいる。私の頭から離れない、人が焼けたあとの嫌なにおいが私の後悔を責め立てるように私を苦しめている。
愛犬もおじいちゃんもはなればなれ。それでも残された私は生きなければならない。心は繋がってるとかよくいうけど、実際そんなこと実感なんてできない。死後の世界も存在しているのかわからずもう会えるかどうかもわからない。それでも私はこの命が尽きるまで生きなければならないのだろう。