古井戸の底

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10/10/2025, 2:51:08 AM

「彼の転職が決まったら、結婚して東京に行くかもしれない」
小学生以来の親友にそう言われた時、彩子は東尋坊の崖っぷちに立たされた心地がした。

彩子の恋愛経験は一度きりだった。新卒で入った会社の同期と付き合ったが、彼の怠惰に愛想を尽かし、半年足らずで別れた。さらには身体を壊し、会社を辞めて1年ほど引きこもった。それ以降、同年代の男性と関わることは一切なく三十路が見えてきた。
現在の彩子の職場は中年だらけ。当然出会いはない。彩子もそれでいいと思っていた。親友と月一会って遊べば、孤独を十分に癒せたから。
しかし、今の彩子は自分でもおかしいと思うくらいに焦っていた。結婚まで行かなくてもいいから、せめてもう一度恋をしたい。


親友に薦めてもらったマッチングアプリを入れて、彩子は右も左も分からぬまま、とりあえずプロフィールが誠実そうな人を選んでやり取りを始めた。なるべく話に共感を示していたら、意外にも数日で初対面の約束が決まった。場所は彼にお任せしてしまった。

秋らしい色合いの服を箪笥から引っ張り出して並べる。服を選ぶのにここまで悩むことも今までなかった。きっと彼もそれなりにオシャレしてくるはずだ。自分は見合う格好をできているだろうか。
期待と不安で鼓動が速まる。彩子はメイクを終えると、ひとつ深呼吸して、鏡の前で笑ってみた。

【秋恋】

9/28/2025, 11:11:42 AM

私たち、ずっと友達でいようね。
小学時代、友達がそう言っていた。中学卒業が近づいたあたりで、彼女と学校以外で会う機会が減った。遊びに誘っても断られた。理由は決まって彼氏とのデートだった。
人間関係における永遠は絵空事だと、愛寧は思っている。人の縁は、いつかどこかのタイミングで切れる。女子同士の友情は特にあっけないもので、どちらかが恋愛に目覚めるとほぼ確実に消滅する。相手がぽっと出の異性を優先して、自分の元から去ってしまう。

空閑に告白されてから、明日でちょうど一週間になる。まさか自分が恋愛する側に立つ日が来るとは思いもしなかった。彼のことは嫌いじゃない。共通の話題もあって、気楽に過ごせる。何なら、心の片隅で期待していた自分もいる。
しかし、空閑の人気は高い。多くの女子が空閑に熱視線を送っている。それだけ彼との縁を切られやすい。
スマホの通知音が鳴った。
『お疲れ。明日一緒に帰れる?』
空閑からポップアップでメッセージが届いている。告白の返事を催促されている気がした。このまま断って幼馴染のままでいるか、受け入れて付き合うか。
愛寧は空閑のチャット欄を開き、OKと文字の入ったスタンプを送った。
『この間の返事、ちゃんとしようと思う』

【永遠なんて、ないけれど】

9/28/2025, 10:14:49 AM

「大丈夫?」
空閑が自販機からジュースを取り出し、愛寧に渡してきた。
「日本史のあれ?」
「まあね」
「確かに、畤地にしては珍しかったけど、あれで成績落ちたりはしないじゃん?」
「成績がどうこうじゃないの」
急に当てられて、答えが浮かばなかった。その時点で愛寧にとっては大きな失態である。教師は愛寧に期待していたのだろう。他の生徒より時間を取ってくれたが、それが却ってプレッシャーとなった。誰も喋らず、時計の針の音だけが響く教室。頭が真っ白になって、すみませんと頭を下げるしかできなかった。
「小学校の頃のトラウマがあって」
畤地のくせにわかんねぇのかよ!
あの年頃ならクラスに必ずひとりはいる、人の失敗を無邪気に笑うお調子者。席に座った時、あいつの声が聞こえた気がした。
「なんでそんなこと気にするんだって思うでしょ」
目頭が熱くなって、鼻がツンと痛い。
「分かってるよ。あの場で答えられなくても別に死ぬわけじゃないって。でも、どうしてもあの時を思い出すんだ」
それでも、あいつの幻影に馬鹿にされないためには、上手く言葉を返さなければならない。
「ごめん」
震える声を押し殺したが、空閑に背中を摩られると涙が抑えきれなかった。

【涙の理由】

9/18/2025, 4:20:11 AM

愛寧が通学時に履くのは、いわゆるおでこローファーである。ローファーは素材が硬いから、下駄足はこの形でないと靴擦れを起こしやすい。
本当は深みのある茶色のものが欲しかった。しかし買いに行った当時は売り切れていて、黒しか選択肢がなかった。
愛寧はため息をついて、いつの間にか解けていた靴紐を結び直した。レースアップタイプの靴紐は、可愛らしいものの解けやすいのが難点だ。

【靴紐】

9/17/2025, 7:59:55 AM

「お前はどう思ってんの」
「どうって、何を」
「俺と一緒にいること」
「……」
「俺は楽しいよ」
愛寧は言葉に詰まった。空閑が立ち止まり、愛寧の方へ向き直る。自宅は目と鼻の先にあるのだから、はぐらかして逃げ帰ることもできた。しかし、愛寧にはそれができなかった。彼がいつになく真剣な表情でこちらを見据えている。
「好きなんだ、お前のこと」
愛寧はますます言葉に詰まって、目を泳がせた。
最近の空閑はやたら自分とふたりで帰りたがっていたから、何となく疑ってはいた。しかしそれは単なる自意識過剰でしかないと、愛寧の中で結論付けていた。
彼と過ごしてきた記憶を遡る。別れが名残惜しいと感じた時もあれば、一刻も早く会話を終わらせたくなった時もある。
「今は答えられない。ごめんなさい」
「俺の方こそ、急にごめん。返事はいつでもいいから」
空閑はそう言い残して去って行った。全身の力が抜け、ふらふらと自宅の玄関へ入る。ドアの鍵を閉めると、愛寧はその場にへたり込んだ。
「私は、空閑のことが――」


【答えは、まだ】

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