ずっと前から分かっていたことだ。
彼は私を愛してなんかいないし、好きでもない。それどころか、邪魔だと思っている。
それならそれでさっさと別れを切り出してくれていれば良かったのだが、便利な女を手放したくはなかったのだろう。
そうと分かるほど、私は彼に夢中だった。彼が望むなら何でも言う通りにしたし、別れを切り出されるのが怖くて不審な行動も見て見ぬ振りをしてきた。それなのに。
−−バカみたい。
点々とアスファルトが色を変え、次第にその面積を増やしていく。
春とはいえまだ冷たい雨に、歩いていた人達が悲鳴をあげて足早に私の横をすり抜けた。
同じように慌てて避難しようとしていた男女は、目の前に立ちはだかった濡れ鼠を見てギョッとした顔をした
「−−こんにちは」
女は訳が分からず不安そうに男にしがみつき、男は男で驚いたように私を見た。どうして、と呟いた、それは私の台詞なのだけど。
睨み返すと女は状況を悟ったのか、「サイテー」と吐き捨てて彼の頬を平手打ちして去っていった。
それが少し羨ましい。そんなことを言ったら彼女に呆れられてしまうだろうか。
「合鍵、返さなくていいよ」
どう言えば誤魔化せるのか悩んでいたのだろう、私の言葉に彼はほっとした顔をして、けれどそれだけ。
謝罪するでもなく、平然とした顔で今日の夕飯の献立を尋ねてきた。挙句、遊ぶ金を要求してくる始末。厚顔無恥とは彼のことを言うのだと、妙に冷静にことわざを思い出す自分に笑ってしまう。
「もしも…っ」
通話ボタンを押した途端に怒鳴りつけられ、咄嗟に耳を塞ぐ。スピーカーにしておいて良かった。
『っお前、どういうことだよ!?』
「どういうことって?」
『だから……−−!』
よほど焦っているらしく、罵詈雑言ばかりで説明は要領を得ない。
時々聞こえる「金」「飯」「部屋」から推察するに、彼−−もう元彼−−は、結局あの夜は私の部屋を訪れなかったらしい。私が夕飯を彼の苦手な料理だと言ったからだろう。
そして数日後、部屋を訪れて驚愕したらしい。
『どうして部屋にいないんだよ!』
「どうしてって……引っ越したから?」
『だから何で!』
「別にいいでしょ? 私達もう別れたんだし。浮気するってそういうことだよね」
そう言うと彼は呆気に取られたように黙り込んで、慌てて捲し立てる。
そんなつもりはなかった。俺にはお前だけだ。なんて、慌てて猫撫で声で擦り寄ってきて、本当に気持ち悪い。
『とにかく会って話そう。今どこ−−』
「悪いけど。他人にプライベートは教えられないよ。新しい彼女さんとお幸せにね。あ、合鍵は返さなくていいよ」
さっさと通話を切って、すぐに何度もかかって来る電話を着信拒止すると今度は友人経由で連絡してきて、見苦しいにも程がある。
幸い、友人達は事情を話すと納得してくれた。中には「だからあいつは止めろって言ったのに」と叱ってくれる人もいるのだからありがたい。
友人達に説明を終えて息をついていると、桜の花が窓越しに見えた。
新しく移った部屋は日当たりが良く、少し暑いくらいだ。
たまに友人が教えてくれる情報によると、元彼は随分荒れているらしい。新しい彼女に復縁を迫ったものの、また平手打ちを食らったらしいのには笑った。懲りない男だ。
「−−バカみたい」
自然に漏れた言葉は春の柔らかい陽射しに溶けた。
周囲の景色が色褪せて見える。
まるでこの世界にいるのは君と僕の二人だけで、実際にそうなのだろう。
街の雑踏も軽快な音楽も、話題の映画だって、君とじゃなきゃ楽しめない。
君はいつだって嬉しそうに笑っていて、君の周りには色が溢れていて、その色が僕の世界を彩ってくれたから。
君の世界にもたくさんの色が溢れていますように。