司馬仲達にとって仕官とは馬鹿のすることであり、天才たるこの身が宦官の孫ごときに頭を下げるつもりなど毛頭なかった。
君子危うきに近寄らず。
戦乱長引き漢の威信も地に落ちたこの乱世、司馬仲達のような文化人はただ野に在ってその様を眺めているくらいがちょうど良かった。
司馬仲達にとっては曹孟徳などどうでも良い存在であったが、しかし彼処はそうではなかったようだ。
人材を集めることに執念を燃やすあの小男は、司馬仲達にいたく執心していた。
一度目は書簡を携えた文官が仕官を要請してきた。書簡には曹孟徳直筆の署名もあった。
くだらん乱世に態々巻き込まれる必要も無い。仲達は丁重にお断りした。
二度目は曹孟徳が来た。ここで初めて仲達は曹孟徳を見た。なるほど、噂にたがわぬ小男だ。
才ある者は才ある者を見抜く。仲達は曹孟徳のその才を認めざるを得なかった。が、乱世をおさめることは出来まい、とも予見した。乱世の奸雄とはどこぞの易者が言ったのだったか、よく言ったものだ。天下を取れる者であれば奸雄に留まることは無い。だが、曹孟徳は奸雄だった。
仲達は先の見えた男に仕官する気はない。
三度目は軍勢が来た。曹孟徳が言う。「貴様が頷かなければ族滅させる」と。
なんの罪あって俺を殺すか、と仲達が問えば、曰く「天より授かりし才を野に在って無為に費やすことが貴様の大罪だ」と。
仲達とて命は惜しい。節を屈して曹家の軍門に下った。
だが、心服せずして仕官したこの司馬仲達を曹孟徳は信用出来なかったらしい。手に入れるまではあれほど執着したにも拘わらず、結局重用することなく我が身から遠ざけた。
天下の鬼才が己を恨んで策を弄じることを恐れたのである。
飼い殺しとも言うべき日々に、司馬仲達は鬱屈したような表情を浮かべていた。これで、野にあるのとどう違うものか、と。
突然の君の訪問はその頃だった。
君──曹子桓は曹孟徳の子の一人であった。仲達の炯眼を以て見れば、子桓の才は父孟徳の才に比べることも出来ぬ凡才であった。まだ、子桓の弟の子建の方が才気があった。
だが、曹子桓、君は凡才であるが故に人並みの気配りがよく出来た。才ある司馬仲達、曹孟徳、曹子建にはこれがなかった。才ある者は自力で難を超える力があったから、他人の災いに鈍感であった。
不遇をかこつ仲達を前に、子桓は尋ねた。不自由はないか、望みはないか、と。
曹子桓は父が見い出したこの鬼才の不遇がたまらなかったのである。
曹子桓はよくよく仲達の世話を焼き、次第に仲達も子桓に心を許すようになった。
ある日、こんな会話をした。
「子桓よ。貴様は孟徳の跡を継ぐ気はあるか?」
「無論だ」
「良いだろう。だが、子建の方が才気はあるな」
「……仲達までそんなことを言うのか」
「拗ねるな、事実だ。それに、所詮子建と言えども俺からすれば凡才の域を出ん」
「……子建をダシに、俺まで凡才と言い切ったな」
「違うか?」
「意地の悪いやつだ」
「凡才同士で跡目を争うのだ。なら、子桓は勝ったも同然だな」
「……お前がつくからか?」
「俺がつくからだ。……代わりに、貴様が死んだらこの天下は俺が貰うぞ」
「───呵呵、良いだろう。俺が死んだら仲達、貴様が好きに天下を獲ればいい」
曹孟徳の死後、曹子桓は権謀術数を用いて跡目争いを制し、更には絶命寸前の漢を滅ぼして魏帝となる。
また、その子桓の死から暫くして、司馬仲達はこの日の約束通り天下を牛耳ることとなった。