無色の世界
青も、黄も、赤も、緑も、紫も
まだ、知らないまま。
お母さんの瞳も、
空も、春に咲く桜も、
花畑も、虹も——
私には、触れられない色。
私の世界は、ただひとつの色でできている。
名前も、輪郭も、よく分からないけど、
それだけが、ずっとここにある。
みんなはそれを「白」と呼ぶらしい。
白は綺麗だと、教えてもらった。
同じ白でも、明るい白や、沈んだ白があると。
でも、私にとってはどれも同じで、
ただ、静かに広がっているだけ。
その中でひとつ、
足元にある白が、いちばん好き。
「土」と呼ばれるそれは、
どこまでもやさしくて、
なぜか、少しあたたかい気がする。
——それでも、思ってしまう。
プールの色も、
星の色も、
誰かが選んだ服の色も、
一度でいいから、この目で見てみたい。
きっと、世界は
今よりも、ずっと遠くて、ずっと近い。
だから私は、願ってしまう。
この、静かすぎる白の中から
いつか、抜け出せる日を。
夢見る心
潮の匂いで、朝が来る。
白いカーテンが揺れて、その隙間から海が見える。
四月の光はやわらかくて、少しだけまぶしい。
窓の外では、同じくらいの歳の子たちが笑っている
制服のスカートが風に揺れて、
誰かが「受験どうする?」なんて話している。
17歳。
その数字だけが、私の中で少し浮いている。
机の上には、開かれたままの問題集。
簡単なはずの足し算で、指が止まる。
ここでは、時間だけが静かに進んで、
私だけがどこにも向かっていないみたいだった。
「あの病院、景色が綺麗らしいよ」
「いいなぁ、1回泊まってみたいかも」
誰かの声が、遠くでこぼれる。
確かに、綺麗だと思う。
光る海も、
どこまでも続く空も。
でも私は、そのどれにも触れたことがない。
芝生を知らない。
柔らかいのか、冷たいのか、
踏んだらどんな音がするのかも。
スケッチブックを開く。
何冊も積み重なった紙の上に、
今日も同じように山を描く。
その手前に、緑を広げる。
本当の色は知らないから、
少しだけ明るく塗る。
そこに、小さな女の子を描く。
17歳の、私。
足はちゃんとあって、
風の中を歩いている。
少しだけ笑っている。
そんな想像をすると、
胸の奥が静かに痛む。
歩けることも、
外に出られることも、
きっと特別じゃないはずなのに
私には、どれも遠い。
ページをめくる音だけが、
大きな病室に小さく響く。
それが、私の時間だった。
目を閉じる。
見たことのない景色が広がる。
芝生の匂いも、風の感触も
全部、想像の中でだけ確かになる。
そこでだけ、
私はちゃんと17歳でいられる。
心はいつも夢を見ている。
神様へ
人はいくつもの時代の中で
いくつもの神を生み落とした。
色も形も、名前さえも違うままに。
神社にいると信じて、手を合わせる人。
教会で言葉を預ける人。
十字架を握り、空を見上げる人。
静かにお経を唱える人。
そして、どうしようもない夜にだけ、
形のない何かに縋る人。
神は、きっとひとつじゃない。
人の数だけ、そして孤独の数だけ、そこにいる。
縋らなければ壊れてしまいそうな心が、
そっと置いていった願いの跡が、
神というかたちをしているだけなのかもしれない。
だからきっと、誰も祈らなくなったとき、
神は音もなく消えてしまう。
しかし、神は今までずっと生きてきた。
どれだけ時代を重ねても、どれだけ年月が経っても
姿形をかえ、誰かの中でかすかに灯り続けるもの。
それが、きっと神なのだと思う。
そんな俺も、神社の子どもだ。
俺だって、胸の奥にひとつ神を抱えている。
明日もまた、誰かが願いを手放す。
届くかもわからないまま、
それでも祈るしかない声を。
「どうか聞いてやってくださいね、」
神様へ。
遠くの空へ
ふと空を見上げたとき、思うことがある。
この空の向こうには、何が広がっているのだろう?
地面はすぐそばにあって手を伸ばせば触れられる。
でも、空には背伸びをしたって届かない。
――まるで、自分みたいだと思った。
過去には触れられる。
あの日の声も、笑い合った時間も、
目を閉じればすぐそこにあるのに
未来は、空みたいに遠くて、広くて、
どこまで続くのかも分からない。
触れたくても触れられないまま。
ただ、前に進むしかない。
桜の木の下で先生に挨拶をして、
友達に手を振る。
「またね」なんて言いながら、
本当はもう同じ日々には戻れないことを
きっとみんな知っている。
ゆっくりと学校の門を出て、
一度だけ振り返った。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
――よし、頑張ろう。
遠くの空に向かって、そう心の中で叫んだ。
言葉にできない。
嘘を並べるのは得意だ。
お綺麗ですね
可愛らしいですね
どんな相手にも、言葉は作れる。
並べるだけなら、きっといくらでも。
でも——
本当に美しいものを見たとき、
本当に心が揺れたとき、
空気だけが澄んでいって、
自分の輪郭がぼやけていく。
心は確かに動いているのに、
思考はどこかに置き去りになって、
気づけば、沈黙だけが残っている。
口を開こうとした瞬間、
浮かびかけた言葉は
朝露みたいに輪郭を失って、
光に溶けていく。
言葉は作れる。
それでも、想像を超えた時、
言葉は“出ない”んじゃない。
ただ、静かに消えていく。
手の中にあったはずのものが、
ほどけるみたいに。
残るのは、名前のつかない余韻だけ。
言葉にできないんじゃない。
言葉が届かない場所に
触れてしまっただけなのだ。