時折、リヴァルシュタインは切なそうに里を見下ろしている。平穏な日常は彼の求めるものに一歩届かないのだろうと思う。だからといって、何かが起こってほしいわけではない。何も起こらず、このままで在ることが一番大切ではあるのだ。
トルデニーニャは欄干に頬杖をついて空を見上げていた。遥か高みに浮く彼の姿は眩しい。里一番の戦士、次の里長……あらゆる称賛をその身に受ける彼は一体何を思っているのだろう。その背に追いつきたいと努力を重ねても、彼はその三歩先を進んで手が届かない。
目を閉じ、ふうと息を吐いた。
風のざわめきが聞こえる。遠くでは懐かしい笛の音がする。いつともなしに聴こえるその音は、どうやらトルデニーニャにしか聴こえていないようだった。彼には鼻で笑われたし、里長も首を傾げていた。
(父様なら聴こえたかもしれない)
男手ひとつでトルデニーニャを育て上げた父は、里の中では変わり者だった。里の男たちが強さを尊び、毎日訓練に明け暮れているのに対し、父はのんびりと唄を歌って楽器を弾いていた。たくさんの書物に囲まれて、いつも本を読んでいた。
父は博識で、トルデニーニャに色んな話をしてくれた。読んでいる書物の話、遠く離れた地の話、母と出会った話、御伽噺、お城の話……。また、優しい人でもあった。トルデニーニャの些細な問いに真摯に向き合ってくれる人だった。
唯一の家族もこの間亡くなってしまった。あのときのことはよく思い出せない。あっという間に過ぎ去ってしまった。いつまで経っても起きてこない父の前で呆然と佇むトルデニーニャの代わりに、一切を仕切ってくれたのがリヴァルシュタインだった。彼はてきぱきと葬儀を執り行い、遺体を荼毘に付した。
それ以来、彼はより厳しい訓練を重ねるようになった。比例して自他に厳しくなり、今では誰も寄せつけなくなった。幼馴染であったトルデニーニャすら、容易には近づけない。彼は鋭く尖った鏃のようで、迂闊にさわれば怪我をしてしまう。それはお互いに望むところではなかった。
一時は接戦していた弓の腕も、遠く離されてしまった。ふっと笑うと、トルデニーニャは大きく伸びをした。空は今日も透き通っていて雲ひとつない。
いつかこの空を自由に泳いでみたい。何も考えずにただひたすら高く高く。嫉妬も執着も郷愁も、思い出すら全てを捨てて。
そんな日が来ることを願っている。
決まった主人を持たないために、あっちこっち引っ張りだこな衛兵のロハは、ようやく貰えた休日に、焼き菓子を作っていた。
久々に作ったせいか加減がわからず、気づけば一人では食べ切れないほどの量を作ってしまっていた。少しは日持ちするとはいえ、二、三日くらいで食べてしまわないと傷んでしまう。夕食が要らなくなるほど消費して、隣室の同僚にいくらか押しつけたが、それでも残っていた。
ロハは悩んだ末に、世話になっている職場の先輩に持っていくことにした。他人に渡せる出来ではあるし、甘い物は好きだと言っていたことを思い出したからだ。
彼女の部屋から、目当ての人物の部屋まではそう遠くない。軽い足取りで目的地に向かうと、扉をノックする。
「ネロ先輩、ロハです。今、お時間よろしいですか?」
中に向かって声をかけると、扉が開いた。隙間から大柄な男性が顔を覗かせる。
「……お前がわざわざ来るとは珍しいな。どうかしたのか、ロハ」
ロハは持っていた袋をネロに渡すと言った。思わず受け取ってから、彼は困惑したように袋の中を覗き込んだ。彼の目が見る見るうちに輝き出す。
「ロハ、これは……?」
「今朝作った焼き菓子なんですけど、作り過ぎてしまったので、よかったら貰っていただけませんか」
彼女の言葉に彼は嬉しそうに微笑んだ。
「では、頂くよ。ありがとう、ロハ」
「こちらこそ、貰っていただいて助かります。お口に合えばいいんですけど」
同じように満面の笑みを浮かべてぺこりと頭を下げるとロハは、それではと踵を返す。
――あんな風に笑う人だったんだ。
初めて見た彼の一面に、彼女は素直な驚きを覚えた。いつだって無表情で寡黙で、元々強面なのが相まって、とても恐ろしい人に見えていたけれども。
もちろん、見た目が怖いというだけで、人柄がいいのは皆に知られているところだ。
周囲をよく観察しており、そっと人のフォローに回ることができるし、口数は少ないものの、その言葉には人に対する気づかいや思いやりがある。決して怒らず威張ることもない。物静かで何事にも文句を言わず、近衛兵の中でも実力も申し分ない彼は、ロハにとって尊敬する先輩――。
ふいに先ほどのネロの笑顔が脳裏に浮かぶ。トトトと鼓動が速くなってきた。
(あ、やば)
自分の顔に熱が集まっていくのがわかる。今、鏡を見たら熟れた林檎のように真っ赤な顔をしているに違いない。
――美味しいって思ってくれればいいなあ。
この気持ちが恋なのかどうかはわからないけど、そうならばとても嬉しい。ロハは知らず知らず、口元に笑みを浮かべながら、自室への道を歩いている。
高校三年生の夏休みを過ぎると、放課後、教室に残っている生徒の数が増える。部活動に邁進していた生徒たちが、続々と引退していくからだ。
帰宅部の直子には、引退の二文字は関係ない。常に引退しているようなものだからだ。せっかくの時間を有効活用しようと、昨年ぐらいから、冬の大学入試に向けて問題集を繰り返しているところだ。
(……駄目だ、集中できない)
自宅での勉強は捗らないことが明白で、直子は教室に残って勉強していたが、今日はどうも騒がしい。人が増えたせいだろうか。
仕方がないので図書館にでも行こうと、荷物をまとめているとき、肩を叩かれた。直子は瞬間的に眉間に皺を寄せると、渋々と振り返った。
「何?」
「今から帰るなら一緒に帰ろうよ」
朗らかに笑う幼馴染の姿と、その幼馴染に黄色い声を浴びせるクラスメイトたちの姿が目に入った。ますます直子の眉間の皺が深くなる。
直子はこの幼馴染が苦手だ。端正なルックスで文武両道なものだから、いつも女子に囲まれている。彼の人柄が苦手だと言うわけではなく、彼と関わることは余計な嫉妬を貰うことと同義だから、なるべく関わり合いたくない。
「……わたし、帰るんじゃなくて、今から図書館で勉強するつもりなんだけど」
「じゃあ途中まででいいから」
そう言いながら彼は直子の鞄をさっと持つと、そのまま教室の外へと出ていってしまう。相変わらず強引な奴だなと溜息をつきながら、直子もそそくさと教室を出た。クラスメイトの視線が痛い。
教室の出入り口から陰になったところで彼は待っていた。
「俺ん家来ない?」
「あのね、匠くん。わたし、勉強するんだってば」
「俺ん家でもできるでしょ」
「何でわざわざ人のお家で勉強しなくちゃいけないの? それだったら、自分の家で勉強する方が遥かにマシ」呆れたように肩を竦めると、直子は彼に向かって手を出した。「鞄、返して」
彼は彼女の手に自分の手を重ねた。しまったと言わんばかりに彼女の目が大きく見開かれ、手を引こうとする。しかし、彼女が手を引く前に、彼がしっかりとその手を握ってしまった。
「ほら、帰ろうよ」
そう言って、彼は歩き出した。振りほどきたくても彼の力に勝てなくて、引きずられるようにして直子も歩き出した。
昇降口に向かう途中で、彼がぽつりと言った。
「俺さ、推薦決まったんだよね」
知ってる、と直子は返した。最後の夏、県大会の突破こそできなかったけど、今までの実績から早々に大学側から声がかかったという話は、二学期が始まった途端に耳にした。
「……だからさ、直子もおいでよ」
彼はぎゅっと直子の手を握った。
「あのねえ、匠くん」直子は彼の背中に向かって言う。「わたし、そんなに成績がよくないから、受験勉強をフツーに頑張らなくちゃいけないの」
その言葉を聞いて、彼はぴたりと立ち止まった。こちらを振り向いた顔は嬉しそうに輝いている。応じるように、直子は微笑んだ。
「ずっと一緒って約束を守ってほしかったら、受験勉強の邪魔はしないで」彼女のピシャリとした言葉に、わかった、と答える彼の声音は明るい。「でも、あんまり期待しないでね」
満面の笑みを浮かべて彼は頷いた。
並んで歩く二人の姿を、夕陽が優しく照らしている。
簡単な任務だと言われて渡された仕事は、思いの外時間がかかった。原因はわかっている。自分の隣で水に濡れた子犬のようなしょぼくれた顔をしているアンネのせいだ。厳密に言えば、アンネが悪いのではなく、部下の力量を正しく量ることのできていないギルド長が悪いのだが。
半日でギルドまで戻ってこれる計算だったが、もう空はすっかり暗くなっている。自分はともかく、疲弊しているアンネをギルドまで無理やり連れ帰る理由は一つもなかった。ナハトはそこら辺で適当に宿を探すことにした。一晩泊まれるのならどんなところでも構わないだろう。
「……とはいえ、これはさすがになァ……」
方々を探してようやく見つけた宿は、ベッドが一つ置いてあるだけの狭い部屋だった。ソファなどはない代わりだろうか、そのベッドは普通よりは一回りくらい大きいベッドだ。
「オレ、適当に外で寝てくるから、この部屋はアンネが使えな」
この世の終わりとでも言いたげなほど暗い表情をしていたアンネは、彼の言葉に弾かれたように顔を上げた。ナハトの服の裾をがっちりと掴むと、もげるのではないかと心配するほど横に首を振る。
「い、嫌です! ナハトさんがこの部屋を使ってください。わたしが外で寝ます」
ナハトは溜息をつくと、アンネの額を指で軽く弾いた。
「バーカ、ここら辺、そんなに治安よくねェし。お前が外に行くのは絶対ダメ」
「でも……今日の失敗はわたしのせいですし、それなのにわたしがベッドを使って、ナハトさんが外で寝るって、気が引けます……」
「あれは別にお前のせいじゃねェよ。どっちかと言うとあいつの采配がアホだったんだ。だから気にすんなって」
ナハトはそう言って慰めるが、アンネは消沈したままだ。
「けど、お前がそんなに気にすんだったら、一緒に寝るか?」
冗談のつもりで口にした言葉に、アンネが身を乗り出して頷くものだから、彼は後に引けなくなってしまった。その方が問題があるような気がしたが、ナハトは深く考えることを止めた。
カーテンの向こうでアンネが寝る仕度をしている。彼も取り敢えず、着けていた装備を外して部屋の隅に置くと、ベッドに横になった。まあ、自分がベッドの中に辛うじて収まったので、小柄で華奢なアンネならば、余裕だろう。
仕度を終えて戻ってきたアンネが、ナハトの横に遠慮がちにもぐり込んでくる。しかし、安心しきったのかすぐに寝息を立て始めた。
その彼女のあどけない寝顔を見ていると、なぜか鼓動が早鐘を打ち始める。今晩は眠れそうにないとナハトは溜息をついて、目をつむった。
風に乗って、薄っすらの笛の音が聞こえる。物心ついた頃から、自分を慰め続けてくれていた音が。
「――やっぱり、島が恋しいですか?」
ロレーナに声をかけられて、島をぼんやりと見上げていたオリエは我に返った。彼はばつが悪そうに頬を掻いた。
「いや、そういうわけじゃないんだ」
二人はこの間、めでたく結婚した。今は、彼の生まれ故郷になる島を出て、別の土地で暮らしているが、今日は久々の里帰りだ。
ふっと遠くを見ながらオリエは口を開いた。先ほどから浮かない顔――いや、どちらかというと、愁いた顔をしている。彼がそんな表情をする心当たりが、ロレーナにはなかった。
「笛の音が聞こえるんだ」
「笛の音、ですか」
鸚鵡返しに答えながら、彼女は首を傾げた。耳を澄ませてみるが、聞こえるのは潮騒の音のみ。ロレーナには聞こえない。
不思議そうな顔をしている彼女に、オリエは翳りのある笑みを返す。
「君には聞こえないかもしれない。もしかすると、俺にしか聞こえていない、幻の音なのかもしれない」
そういう彼の表情があまりにも切なげで、ロレーナは眉を八の字にした。触れてはいけないやわらかなところに触れてしまったのかも。
もう一度、彼女は耳を澄ませた。しかし、聞こえるのは潮騒のみ。どれだけ辺りの音を手繰っても、笛らしき音は聞こえてこなかった。
「物心ついた頃から、その音を子守歌代わりにしてきててね」
彼に両親がいたっけ。ふと疑問が浮かんだが、口にするのは憚られる。ロレーナの記憶が確かなら、この島に暮らす人々は、みんな実の親を知らない。それは、オリエとて例外ではない。
黙り込んだロレーナに気づいたオリエは、苦笑を浮かべた。何となく彼女の頭を撫でながら言った。
「別に、親がいないのを寂しいとか、悲しいとか、思ったことはないよ。俺たちには親方様がいたから」
ただ、少し物悲しげなその音色が、いつも心に隙間風が吹いたときに慰めてくれていた。それは、いるかわからぬ両親を想う自分を慰めるかのようであり、あるかもわからぬ故郷を思い起こさせる。そのせいか、この島が故郷というよりは、この音が自分の故郷であると感じる。ただ、それだけなのだ。
「オリエさん……あの、どこか痛いところでも?」
振り向いたロレーナは、オリエを見て、驚いたように目を見開いた。彼の両目から大粒の涙がこぼれていたからだ。
「ああ、いや、いいんだ。大丈夫だよ」
この情動が郷愁というのかもしれない。子守歌代わりにしてきたこの音が聞こえるとき、強い郷愁を覚える。それは耐え難いほど心を強く揺さぶって、どこからともなく熱い涙を流させるのだ。