マルスはニルヴァーナ修道院附属聖堂騎士団の団長という身分であったが、個人としては神への信仰心は薄かった。もちろん、弁えているので、口にしたことはなかったが。
孤児となった自分を拾ってくれた恩師が、修道院長であったという縁で、彼は見習い修士としてニルヴァーナ修道院に入った。そのまま成り行きで修道士となった。もっと学びたいことがあるのだと恩師を説き伏せて、しばらくは王都の大学院で神学や修辞学など、種々の学問を修めて帰ってきた。
彼が王都から戻る頃、各地に魔物の出没の報が出始めており、各国が自国の防備に力を入れ始めるようになった。ゆえに、修道院もせめて修道院領内の領民を護る力が必要だと修道院長を説得し、聖堂騎士団を立ち上げた。所属する者はニルヴァーナ修道院の修道士たちで、マルスが当初想定していたときより人数が増えている。
まあ、騎士団というのは名ばかりで、やっていることは傭兵のようなもの。依頼を受けて派兵し、依頼を終えて報酬を貰う。
マルスは団長でもあったが、何かの依頼に対して先鋒を務めることも多々あった。どちらかというと、各地を飛び回って依頼をこなしているのは、マルスであった。
彼には一つどうしても叶えたい願いがあるゆえに、各地を飛び回っている。それは、幼少期の頃に別れてしまった幼馴染との再会だ。
彼女もマルスと同様に孤児だった。修道院の門の傍に捨てられていたのを、修道院長が拾い、育てていた。マルスとは特に仲が良く、彼女と共に過ごした日々は、彼の中での大切な思い出だ。
ある日、彼女は彼女の養父母となった夫妻と共に、馬車に乗って南西部の方向へと出発していった。それが最後に見た姿だ。それ以来、杳として消息が知れない。
あちこちの依頼を受け、こなし、報酬を得て、信頼を積み重ねていく。そうして培った人脈を駆使して探しても、全くと言っていいほど消息は掴めず、手がかりすらなかった。
マルスは捜索が空振りに終わるたびに、彼女の無事を神に祈らざるを得なかった。場所さえわかるのであれば、直接、彼女の無事を確かめ、また護ることができるのに。そのような素朴な願いの祈り先として、彼は神を信仰していると言えよう。
彼女の消息が不明になって、十年が経ったとき、たまたま修道院に立ち寄った旅の一行にいた女性に、彼は彼女の面影を見た。思わず彼女の名前を呼ぶと、その女性は立ち止まって振り返った。幼少期の彼女と見た目が全然違っていたが、その顔を見て彼は確信した。
「……マルス?」
ああ、と頷くと彼女はわなわなと震え始めた。彼女の手を取って強く握り締めると、マルスは言った。
「また会えて、言葉では表せないほど嬉しいよ、マーシャ。君が生きてくれていてよかった」
「わっ……わたしも、嬉しいです……っ」
そう言いながら、泣き出した彼女を彼は強く強く抱きしめた。
神を強く信仰していないゆえに、彼は奇跡という言葉があまり好きではなかった。特別という言葉への修飾語のようなものと思っていた。しかし、偶然と偶然が重なり合った結果、彼女と出会い、そして再開できた。これを奇跡と呼ばずして何と呼ぼう。
それ以外、彼は考えを改めた。何か人智では説明の及ばない何かの概念として、神を信じるようになったのだ。
日が暮れていく。遠い山の端に太陽が身を隠そうとしている。
空が水色から橙色へと変わるこのあわいの時間が、フーリエは苦手だった。闇が濃くなり始めて、辺りは薄暗くなるのに加えて、未だに顔を覗かす太陽の光がその陰を濃くするからだ。
明暗が鮮烈で周囲がよく見えなくなる。
すっかり日が沈んでしまえば、ランプが辺りを照らすものの、この半端な時間帯はまだ誰もが自然光に頼る。半分くらい夜に足を踏み入れているというのに。
「フーリエ」
静かに名を呼ばれて、彼女ははっと顔を上げた。彼がこちらを見ている。
「黄昏が恐ろしいか?」
その声にあまり感情はなく、ややもすれば冷たく聞こえる声音だが、確かに心配の色が見えた。彼は不器用なひとなのだ。彼と旅を続けるうちに、彼女はそう悟った。
「……いえ、黄昏だけが怖いというわけではないのですが……」
「お前は闇を嫌っていたな」
はい、と彼女は頷いた。フーリエが苦手なのは、黄昏だけではなく、黄昏時から始まる夜だ。闇が恐ろしいのだった。幼い頃に、やっかみ半分で暗所に長時間閉じ込められて以来、大の苦手になった。
「黄昏時は逢魔時とも言い――」彼は皮肉気に笑った。「魔物や大きな災禍に遭う時間帯とされてきた」
「……もう、脅かさないでください、アグニム様……」
彼女は小さな溜息をついた。より一層、この時間帯が嫌いになりそうな話を聞かされてしまった。元よりいい思い出がないから、これ以上嫌いようがないけれど。
彼は沈みゆく太陽を見ながら口を開いた。
「恐れることを恥じることはない。恐れるものがない者はただの蛮勇だ。恐れるからこそ克服しようとするのだから……」
その声音に不穏なものを感じて、フーリエは彼を見つめた。彼女の視線に気づいたらしい彼は、彼女を見つめ返した。彼女の眼差しの意図が読めずに彼は小首を傾げたが、
「別に克服しろと言っているわけではないぞ」
そう言うと悪戯っぽく笑った。フーリエに向かって彼は手を差し伸べる。
「恐ろしいのなら、いつだって手を引いてやるとも」
彼の言葉に彼女ははにかむと、その手を預ける。彼女の細い手を握り締めて、アグニムは先導するようにゆっくりと歩き始める。
彼女には見えないその口元には、知らず知らずと微笑が浮かべられていて、橙色のやわらかな色が彼の怜悧な横顔を優しげに見せている。
静謐な部屋で一人、メユールは坐して主人が目覚めるのを待っている。ずっと、ずっと、待ち続けている。
祖国は今、内憂外患の危機に晒されており、ひと時も気を抜く暇がない。此度のことだって、祖国を攻め入らんとする隣国から国境を防衛し、辛勝を上げたところに入った内乱の報せを受けて、主人・ジルベールは首都グランディアへと蜻蛉返りをせざるを得なかった。
防衛戦で受けた傷は決して軽いものではなかったが、癒す時間すら惜しいと傷を押して戻ったジルベールは、内乱の鎮圧を果たしたあと、糸が切れたように動かなくなった。
そしてそのまま、もう一週間が経とうとしている。季節は晩冬、やや春めいてきてはいるものの、吹く風は冷たい。この国は大陸の北の方にあり、全体的に寒冷地が多いものの、首都は国の南側にあり比較的温暖な地域だ。それでも、窓の外にはまだ残雪が積もっている。
換気のために窓を開けるたび、メユールは暖かな部屋に入り込むその空気の冷たさに身を震わすが、ジルベールはぴくりとも動かない。
(今日もお目覚めにならないか……)
溜息をついたとき、コンコンと軽いノックの音が聞こえた。メユールは持っていた編み針を近くのテーブルに置くと、椅子から立ち上がる。小さな返事と共に扉を開けた。
「クアリオ、殿下はまだ目を覚まされないか?」
扉の外にはメユールの同僚が立っていた。中に入るように勧めるが、固辞するのでそのまま彼女は応じる。
「はい……まだお目覚めになりません」
「そうか……。なら、引き続き頼む」彼女の同僚はそこで一旦口を噤んだ。彼は蒼褪めた顔色をしている彼女を気づかわしげに見つめる。「だが、決して無理はするな。殿下に引き続いてお前まで倒れられてしまっては困る」
メユールは小さく微笑んだ。
「ええ。お気づかいいただき、ありがとうございます」
同僚は敬礼をするとそのまま踵を返して去っていく。その後ろ姿を見送って、メユールは再び部屋の中に戻る。椅子に座ると、編み針を取った。黙々と編み針を動かして編み目を作っていく。
没頭すると、見ているようで見ていない、聞いているようで聞いていない、そんな無に至る。その感覚はおそらく瞑想に似ている。手元が見えにくくなったと思ってメユールが顔を上げたとき、もう窓の外はとっぷりと暗くなっていた。
月明かりがジルベールを優しく照らしている。
彫像のような彼の寝顔を見つめていると、嫌な予感が不意によぎっていく。万が一も考えてはいけないのだと首を横に振るが、一度浮かんだものは、まるで紙に落ちた染みのように消えることなく、頭の片隅にずっとこびりついてしまっている。
(このまま……目を覚まされなかったら、どうしよう……)
じわりと視界が滲んだかと思うと、ぽたぽたとしずくが下に落ちる。泣いても仕方ないのだと頭ではわかっているが、溢れた涙は堰を切ったように止まることがない。
「――メユール?」
彼女のしめやかな泣き声がぴたりと止んだ。メユールは顔を覆っていた手を下ろすと、恐る恐る口を開いた。
「……ジルベールさま……?」
「ああ……そうだ」そう言いながら彼は肘をつくとゆっくりと体を起こす。「世話をかけたな……メユール」
やわらかく穏やかな眼差しがメユールを見つめている。衝撃で止まった涙が再び溢れてくる。ずっと眠っていた彼に言いたいことはたくさんあったが、今はただ、この言葉しか出てこない。
「お目覚めになられて何よりです、ジルベールさま」
ジルベールは泣きじゃくるメユールをそっと抱きしめた。
深い深い地下遺跡から、二人はようやく帰還した。太陽もなく鐘の音もない地下にいると、どれだけの時間が経っているのかわからない。睡眠を取った回数を経った日数だと数えている。
今回は三度寝たから計四日は経っているはずだが、一週間も経ってはいないだろう。前のあのときみたいに、異空間に飛ばされでもしていない限りは。
洞窟の出入り口から入り込む陽光が目に眩しい。火傷のような衝撃を覚えて、咄嗟にニェナは目をつむった。鮮烈な光がやわらかく感じるようになって、ようやく彼女は目を開けた。
「……大丈夫か?」
心配そうにメイナードが自分の顔を覗き込んでいる。
「あ、はい」目が合ったのでニェナはにっこりと微笑んだ。「大丈夫です。……少し、目が眩んでしまって」
そうか、と小さく頷くと彼はニェナから離れた。そして、先に外へと出て行った。もう少し目を慣らしてから、ニェナもその後に続いていく。
思ったとおり、彼は洞窟の出入り口のすぐ近くに立っていた。彼がニェナを置いていくことは決してない。好奇心旺盛なニェナが彼を置いていくことは多々あるが。
二人は並んで森の中を歩き始めた。
森の木々は紅葉が深まってきた。そろそろ秋も半ば。異世界にいるうちに時間があっという間に過ぎてしまっていたから、実感としては薄いものの、もう探索を始めて半年以上の月日が経っている。まだ、災厄は治まらない。……治まる兆しも見せない。
(おばあ様はわたしのせいではないと仰ってくださったけど……)
どうしてもニェナは引き金を引いたのが自分ではないかという罪悪感が拭えなかった。解決して英雄と呼ばれたいわけではない。栄誉を誰かに譲ることになっても構わない。
ただ、町が、生まれ育ったこの故郷が平和になるのであればそれでいい。
枯れ葉が積もるふかふかの腐葉土の地面も、大勢の人々が何度も行き交ううちにすっかり踏み締められている。その道を辿って町に戻ってきた。
町の中央広場までやってきた二人は、どちらとともなくモニュメントの前で立ち止まった。
「メイナードさん、今回もありがとうございました」
ニェナはそう言うと頭を下げた。
「構わない」彼の返答は素っ気ないほど端的だ。「次はどうする?」
「メイナードさんがよろしければ、明日にでも」
「承知した」
彼女の言葉に彼は頷いた。それではまた、と簡潔な挨拶を残して去っていく。
ニェナはその後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、踵を返して家への道を駆けていく。
煉瓦造りの街路を歩いていると、ふと鼻先にしずくが落ちてきた。立ち止まって、空を仰いだステラの顔に、ぱたぱたとしずくが続けざまに落ちてくる。
ついさっきまで青空が広がっていたはずなのに、今は暑い雲が垂れ込めている。向こうの方にはまだ青空が見えた。
「――通り雨かもしれませんね」
声が降ってくると同時に頭に何かを被せられた。視界が極端に狭まる。ふんわりと漂う香りと、この硬質な肌触りは、彼が着ていたジャケットだ。
「ラインハルト、こんなことしなくていいのよ」ステラは頭を隣にいる彼の方へと向ける。「あなたのジャケットが濡れてしまうじゃない」
ふふと小さく笑う声がする。生憎と、視界が狭いせいで彼の表情はよく見えないが、いつものように穏やかな微笑みを浮かべているのだろう。そんな笑い声だ。
「上着は濡れても乾かせばいいんです」
「わたしだって濡れても、いつか乾くわよ」
「体を濡れたままにしていては、風邪を引いてしまいます」
「少々濡れたくらいで風邪など引かないわよ」
間髪容れずに返ってくる言葉に、ステラは呆れを混えて返答する。全く、この男はいつまで経っても過保護だ。出会ったときから何も変わっていない。
(――まあ、だから安心できるのだけど)
小さく息をつくとステラは微笑を口元に浮かべる。
被せられていたジャケットを羽織り直すと、彼を見上げた。彼は穏やかな微笑みを彼女に返して小首を傾げた。
「わたしだって、あなたが濡れるのが嫌なのよ」
ステラがそう言うと、彼は少し目を見開いたが、すぐに笑顔に戻った。
「だから、面白いものを見せてあげる」
彼女は指を鳴らした。ぱちんと小気味のいい音がしめやかに辺りに響く。すると、しとしとと自分たちを濡らしていたしずくが自分たちを避けていくようになった。
今度こそ完全に目を見開いて、ラインハルトはその光景を見つめている。
「もっと早くこうすればよかったわね。ごめんなさい」
「いえ……これは、一体?」
「単純なことよ」彼女は肩を竦めた。「魔術で雨を弾いているの」
彼は感嘆の溜息を洩らすと、ステラの方に顔を向けた。
「さすがですね、ステラ。式も詠唱もなしに行使するとは」
「こんなこと大したことないわ」
そう言った彼女は、自分たちの周りに虹ができていることに気づいて声を上げた。
「見て、ラインハルト。虹が出てるわ」
「おや、本当ですね」
自分たちを彩る虹を見て、彼は再び穏やかな笑みを浮かべた。彼女の肩を抱き寄せると、彼女はきょとんとしたように彼を見上げたが、ふっと笑顔になると彼に寄り添った。
やがて、通り雨は去っていくだろう。それまではこの美しい景色をあなたと見ていたい。