煉瓦造りの街路を歩いていると、ふと鼻先にしずくが落ちてきた。立ち止まって、空を仰いだステラの顔に、ぱたぱたとしずくが続けざまに落ちてくる。
ついさっきまで青空が広がっていたはずなのに、今は暑い雲が垂れ込めている。向こうの方にはまだ青空が見えた。
「――通り雨かもしれませんね」
声が降ってくると同時に頭に何かを被せられた。視界が極端に狭まる。ふんわりと漂う香りと、この硬質な肌触りは、彼が着ていたジャケットだ。
「ラインハルト、こんなことしなくていいのよ」ステラは頭を隣にいる彼の方へと向ける。「あなたのジャケットが濡れてしまうじゃない」
ふふと小さく笑う声がする。生憎と、視界が狭いせいで彼の表情はよく見えないが、いつものように穏やかな微笑みを浮かべているのだろう。そんな笑い声だ。
「上着は濡れても乾かせばいいんです」
「わたしだって濡れても、いつか乾くわよ」
「体を濡れたままにしていては、風邪を引いてしまいます」
「少々濡れたくらいで風邪など引かないわよ」
間髪容れずに返ってくる言葉に、ステラは呆れを混えて返答する。全く、この男はいつまで経っても過保護だ。出会ったときから何も変わっていない。
(――まあ、だから安心できるのだけど)
小さく息をつくとステラは微笑を口元に浮かべる。
被せられていたジャケットを羽織り直すと、彼を見上げた。彼は穏やかな微笑みを彼女に返して小首を傾げた。
「わたしだって、あなたが濡れるのが嫌なのよ」
ステラがそう言うと、彼は少し目を見開いたが、すぐに笑顔に戻った。
「だから、面白いものを見せてあげる」
彼女は指を鳴らした。ぱちんと小気味のいい音がしめやかに辺りに響く。すると、しとしとと自分たちを濡らしていたしずくが自分たちを避けていくようになった。
今度こそ完全に目を見開いて、ラインハルトはその光景を見つめている。
「もっと早くこうすればよかったわね。ごめんなさい」
「いえ……これは、一体?」
「単純なことよ」彼女は肩を竦めた。「魔術で雨を弾いているの」
彼は感嘆の溜息を洩らすと、ステラの方に顔を向けた。
「さすがですね、ステラ。式も詠唱もなしに行使するとは」
「こんなこと大したことないわ」
そう言った彼女は、自分たちの周りに虹ができていることに気づいて声を上げた。
「見て、ラインハルト。虹が出てるわ」
「おや、本当ですね」
自分たちを彩る虹を見て、彼は再び穏やかな笑みを浮かべた。彼女の肩を抱き寄せると、彼女はきょとんとしたように彼を見上げたが、ふっと笑顔になると彼に寄り添った。
やがて、通り雨は去っていくだろう。それまではこの美しい景色をあなたと見ていたい。
黄昏時の中、二人は公園の並木道を歩いていた。石畳の上に落ち葉が積もっており、歩くたびにかさかさと軽い音を立てる。
「おい、ヘンリエッタ」
彼は前を歩く彼女に向かって声をかけた。
「なぁに?」
と言いながら、ヘンリエッタと呼ばれた彼女は振り返った。思いの外、彼と自分との距離が離れていたことに気づき、小走りになって彼の元へと戻っていく。
「お前、鈍臭いのだから、あまりうろちょろするなと言っているだろう」
ごめんなさいと言いながら、彼女は彼に抱きついた。彼女に比べて、彼の方がとても背が高いので、腰辺りに抱きつくことになったが。
彼は鬱陶しそうに眉をしかめたが、彼女を振り払うことはしなかった。そのまま引きずるようにして歩き始める。
「あ、ちょ、ちょっとぉ……」
ずるずると引きずられる体勢でいるのはしんどい。思わず、彼女は彼に回していた腕を離した。
彼は構わずにさっさと先に進んでいく。見る見るうちに差が広がって、今度は彼女が置いていかれてしまった。
「早く来い、ヘンリエッタ」
遠くの方から彼の呼ぶ声がする。その姿は逆光でよく見えなかった。
ヘンリエッタの脳裏に、一瞬不穏な影がよぎったが、考え過ぎだと思い直す。気合いを入れるために、ぺちりと頬を叩く。
もう一度、彼女は彼の元へと走っていく。
彼の姿が見えたとき、彼女は嬉しそうに微笑むと正面から抱きついた。彼の眉間の皺が深くなった。
「いちいちくっつくな……鬱陶しい」
彼に抱きついたまま、彼女は顔を上げた。不服そうに頬をぷくぷくと膨らませている。
「減るものでもないんだから、いいじゃんか。ロロのけち」
彼女の言葉に、彼は大きな溜息をついた。
「お前に付き合っているだけありがたく思ってもらいたいものだ」
自分にひっつくヘンリエッタを引き剥がすと、横抱きに持ち上げる。
「さあ、もう暗くなるから、宿屋に戻るぞ」
「えー! まだちょっとしかお散歩してないのに……」
そろそろ頬が膨らましすぎて破裂するかもしれない。彼女が全力で頬を膨らます様を見て、彼は呆れたように溜息をついた。
「また来ればいいだろう」
「また来てくれるの?」
パッと彼女の笑顔が弾けた。きらきらとした目を彼に向けている。
「気が向けばな」
そう言いながら彼は宿に向かって歩き始める。
「ロロのけち……」
彼の胸に頭を預けながら、彼女は小さくつぶやいた。断末魔のようなつぶやきは夕闇の中に紛れて消えてしまった。