#小さな命
ダンゴムシが顔を出した。土に温もりが感じられた。今年は暖冬である。生命の息吹が幾分早く感じられる二月である。今年に限らず、近頃の四季はまるで昔のフィルム映画のようである。展開が早い。
そういえば、最近こんなことを耳にした。「若者の間では映画やドラマを早送りで観るのがトレンドである」。私たちの青春時代は早送りで映画を観るなど言語道断であったのだが、どうやら事情は違うらしい。「タイムパフォーマンスが悪い」。「緩慢に作られすぎていてとてもじゃないが等速で見ることはできない」。これといった色のない人生を送ってきた私には理解が追いつかなかった。
思い返せば、私の人生はきらびやかな装飾とは全く無縁であった。全てが平均的であった。無意識のうちに高校を選び、中堅企業に就職し、何回とも思い出せぬお見合いの末に結婚した。子供はできなかった。馴染みの定食屋の親子丼が一週間にいっぺんの楽しみであった。小皿のたくあんを、それはそれはありがたくかじったものである。旦那には先立たれ、定食屋は暫く行かぬうちに暖簾を下ろしてしまった。
映画は人以上に観てきたつもりである。4Kなんて夢のまた夢、2Kどころか1Kすら出ているのか怪しいテレビで、毎日昼の一時からの映画をただひたすらに観ていた。洋画は好まない。端正な顔立ちの男と女が愛を交わすシーンなど、全くもって反吐が出る。邦画の、それも日常をそのまま切り抜いたような映画を観て、自分と同じような境遇の人物と心を通わせる、これが究極の愉しみ方である。
そんな映画であるが、決まりきった勧善懲悪ものでも、恋愛ものであろうとも、はたまたドキュメンタリーものであっても、一つ確かなことがあると最近気づいた。それは、どんな映画であっても「主人公一人で物語は完結しない」、ということである。何と平凡な感想か、と思われるかもしれない。ある意味でそれは正しい。このような平凡なことしか考えられないから平凡な生活を送っているのである。
しかし、私の気づきもある意味で慧眼である。時代劇に例えて考えていただきたい。いかにも剣の達人であろう者が人を斬ったとしても、斬られた方がなんとも歯切れの悪い死に方をしてしまったら、興醒め半分カッコ悪さ半分であろう。映画でも一緒である。主人公にピントが合って、ぼけて見えることすらあるエキストラであっても、画面を構成する一部であることに変わりはない。脇役であれば尚更である。
早送りでの鑑賞で、果たして主役から脇役、エキストラに至るまで全ての人物が織りなす一つの物語を味わいきることはできるのだろうか。確かに主人公中心の、映画の根幹となる物語だけを味わっても楽しめるかもしれない。しかし、その楽しみは間違いなく意図したものではないし、大味である。バラの花を見て感動して涙を落とす人は少ない。しかし、バラの花の栄枯盛衰を目の当たりにできれば、皆の目から自ずと涙が溢れてくるであろう。
ダンゴムシはとっくに退陣した。薄い窓が音を立てて揺れ、一本の筋を描きながら通り抜ける。風の声が聞こえるようだ。「あぁ...」。一言発する。脚光を浴びる主人公、地味な盛り立て役の脇役とエキストラ。どちらも同じ命を吹き込まれているはずなのである。一筋の涙が顔から滴り落ちる。日は傾いていた。